『酒場の君』が話題の作家・武塙麻衣子さんが漫画『トラとミケ』をじっくり味わい【特別寄稿】
2024年9月に刊行した最新刊『酒場の君』が各紙誌評で話題になっている作家・武塙麻衣子さんが、ねこまきさんの漫画『トラとミケ』をじっくりと味わい、『女性セブン』に特別寄稿した。 【写真】漫画『トラとミケ』の名場面をカラーでしっかり紹介!
* * * 十二月の名古屋へ来たのはいつぶりだろう。夕方の少し混雑しはじめた名鉄瀬戸線に乗り込み、ドア上の路線図を見上げる。東大手、清水、尼ケ坂ときて森下それから大曽根。路線図にならぶ馴染みのない駅名を目で追っていくだけでわくわくするから遠くへ出かけることは面白い。 訪れた町をのんびり歩いてまわることも好きだけれど、電車やバスに乗るのも歩くのと同じくらい楽しいことだと思っている。そこに暮らす人々の日常をほんの少しだけわけてもらう感じ。ここの人たちはどんなスーパーで買い物をするのかな、とかいい書店はあるかしら、とか。 真剣な顔で単語帳をめくっている中学生や、早めに仕事が終わって帰宅するのであろうスーツ姿の男性、ドア脇で笑い声をあげる女の子たちなどをぼんやり眺めていると、いつの間にか電車は今回の旅の目的地である矢田に到着。 車体が赤や緑色の名鉄瀬戸線も見てみたかったなぁと思いながら電車を降りた。改札を出て、それぞれ家路につく人々の背中に、お邪魔しますと心の中でそっと言う。今日、この町に来ることができて嬉しいです。 数日前、ふと思い立って予約は可能かどうかお店に電話をかけて聞いてみた。なにせトラとミケは言わずと知れた名店だ。せっかく行ったけれど満席で入店ならずでは悲しすぎる。 「あらまあ、横浜からいらっしゃる? うちは予約なんてそんなたいそうなことしていないんだけど、でもせっかくだもの。お席ひとつあけておきましょうね」 「ありがとうございます。よろしくお願いします」 この優しい声はたぶんトラさんだ。なぜそれがわかったかというと、電話を切る直前に、もうひとつ弾んだ声が耳に届いたから。 「ただいまぁ。トラ姉、ちょっと見て見て!」 ちょうど帰宅したミケさん、お買い物の途中でなにか素敵なものでも見つけたのだろうか。それとも、トラさんの好きなサバランを買ってきたりしたのかな。そんなことを考えながら、私は手帳を開き、トラとミケ訪問とカレンダーにメモをした。 初めての酒場に足を踏み入れる時は、いつも猫背の私も少しだけ姿勢がよくなる。暖簾をくぐって、こんばんはと挨拶をする瞬間に新しい物語がひとつ始まるのだからそれは背筋も伸びるというもの。ビールの銘柄はどこだろうとかおすすめ料理は何かな、焼きおにぎりがあるといいなぁなんて考えながら、戸を開ける瞬間は本当に胸が高鳴る。 どきどきしながら陸橋をくぐれば、もうすぐそこがトラとミケ。漂ってくる良い匂いに、ぐぐうと大きくお腹が鳴る。思わず急ぎ足になって角を曲がると、ぽっと灯った赤提灯と「トラとミケ」と染められた朱色の暖簾が目に入った。引き戸の前には小さなベンチがあり、その横には小ぶりのクリスマスツリーが飾られている。てっぺんの星やぴかぴか点滅するカラフルなライトがなんだか無性に懐かしくてしばし立ち止まり、深呼吸をひとつしてからがらりと戸を開けた。