ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (17) 外山脩
二章 移民の開祖の粗放と精気
「笠戸丸」は確かに時代を画する事績となった。しかし実は、移民事業としては、全くの失敗であった。 これは当時の関係者の多くが━━種々の資料類の中で━━認めている。原因の分析も、ある程度はされている。しかし責任の所在には明確には言及していない。ために隔靴掻痒の感を否めない。真実がボケてしまう。 そこで本稿では、その責任の所在を追究する。それに先立ち、失敗の実態とわけ(原因)を記しておく。 笠戸丸移民の内、カフェー園移民七七二人は、前章で記した様に六月末から七月初めにかけて、六カ所のファゼンダへ配耕された。職工移民九人はサンパウロ市内で大工や鍛冶工の仕事についた。 しかし『水野龍略伝』という小冊子(1952年、龍翁会編)によると、カフェー園移民の場合は「就労後、幾何もなく、諸方のファゼンダに於いて…(略)…苦情百出し、遂には、それが昂じて騒擾事件さえ…」惹き起した。その挙句、大半がファゼンダから逃げ出すか、追放されてしまったのである。 騒擾とは、この場合、当時の言葉でいえば同盟罷業、つまりストライキのことである。 半年後、日本公使館が現地調査をすると、残留者は、早や半分以下になっていた。事前の契約では、就労期間は最低一年、一カ所のみ半年であった。 潰乱状態といえる。これはファゼンダの経営者・管理者や州政府の農務局を憤激させた。 こうなったのには、無論それなりのわけがあった。それを、やや長くなるが、整理しておく。 劣った移民の質 わけは幾つもあった。主たるそれは移民の「質」と「儲け」の二点であった。 まず質であるが━━。 これは、農業者でない者が多数混じっていた上、家族構成がよくなかった。 彼らが働く場はカフェー園であり、仕事は肉体労働であるから、農業経験者でなければ無理であることは言うまでもない。それと、仕事の性格上、家族単位である必要があった。このことは、予め州政府の農務局から条件づけられていたことである。 ところが、実は農業者は少なかった。それどころか小役人、巡査、刑務所看守、あきんど(商人)、書生、小学校の代用教員、坊主、どさ回りの役者、博徒、船員崩れ、田舎芸者、宿場女郎、三百代言(無資格の弁護士)といった者が多く、ペテン師……の類いまで紛れ込んでいた。(宿場女郎という言葉は、江戸時代だけでなく、明治のこの頃も、使用されていたようである) 正確な処は不明であるが、純然たる農業者は十分の一に過ぎなかった━━と記す資料すらある。 一方では、家族単位という条件を満たすため、俄づくりの養子縁組や戸籍上だけの婚姻が、少なからず行われていた。これを構成家族といった。 こういう質の悪さだけでもカフェー園の労務者としては、失格であった。 無論、こんな無茶なことをしたのは皇国殖民やその委託で移民募集をした代理業者たちである。 何故、そういう無茶をしてしまったのか? これは前章で記した様に、皇国殖民が移民の募集をしたとき、応募者を思う様に確保できなかったためである。 正常な経営感覚からいけば、その時、計画を中止もしくは延期すべきであった。が、そうはせず、苦しまぎれの員数合わせを、やってしまったのだ。 もっとも、社長の水野龍にも多少の言い分はあった。 カルロス・ボテーリョ農務長官との交渉の折、水野は「農業者を家族単位で一、〇〇〇人も集めるのは、時間的に困難」と事情説明をした。すると、農務長官は、 「農事労働に適する人間で、家族らしいものなら……」 と答えた。 これが言い分である。つまり農務長官が政治家らしく、融通をきかした言い回しをし、それを水野が拡大解釈して、職業を問わず掻き集め、他人同士の家族を大量生産してしまったのだ━━。(続く)