共有してくっつくこと――朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』(レビュー)
市川沙央・評「共有してくっつくこと」
まずは、作家・朝比奈秋への膨大な感情を吐露させてほしい。単行本デビュー作『私の盲端』の一行目から度肝を抜かれて「私が読みたかった小説はこれだ」と直感し、ある特殊なセンスを与えられた者にしか書けないそれを読み終わると同時に「私の心の芥川賞」を贈っていた作家・朝比奈秋。「今この社会で描かれるべきはこういうことだよ」と共振して震えながら叫んでしまった第二作『植物少女』は、現実の三島由紀夫賞を順当に受賞した。第三作『あなたの燃える左手で』に至っては、志高いテーマと完成度に「私なんぞもう何も書く必要ないんでは」と自分自身のデビュー早々安心して筆を折りたくなった。この頃には朝比奈秋は各賞ノミネートレースにおける注目作家の一人で、「あなたの燃える左手で」と私のデビュー作とは2023年上半期の文芸誌掲載作として同じまな板の上にあった。私の中には少年ジャンプで連載したいほどに暑苦しいキャラクターと情動が生まれた。負けるなら朝比奈秋と戦って負けたい。むしろ負けたい。朝比奈秋に。もちろん小説に優劣など本来なく、みんな違ってみんな凄いと思うけど、これは私の感性の話。結局、私は朝比奈秋と戦う機会を逸し、後の季節に『あなたの燃える左手で』は泉鏡花文学賞・野間文芸新人賞をW受賞した。 朝比奈秋は今や、新人文学賞三冠をコンプリートして芥川賞作家となった。 さて、その芥川賞受賞作『サンショウウオの四十九日』である。 主人公は結合双生児の杏と瞬。標準的ではない身(しん)体(たい)、その経験と意識を描くことを得意とする作者の真骨頂だ。結合双生児の姉妹がテーマといえば、萩尾望都の傑作漫画『半神』を思い浮かべるだろうか。『半神』は文学史上屈指の強度をもつ作品だから、いくら朝比奈秋でも及びきれないのでは……と私も身構えたが、杞憂だった。健常者がみな一様な人生を送っていないように、結合双生児だからといって我々のイメージする型に嵌ってはくれない。異なるものは比べられない。その体も、その物語も。 杏と瞬は、半分ずつちょうど真ん中でくっついて一つになった体を共有する双子。丸い右顔と面長の左顔、「違う半顔が真っ二つになって少しずれてくっついている。」他人からは極端にアンバランスな体つきをした一人の「障がい者」に見られるが、そうではなくて「一体だけど一人ではない」――。思考や記憶を共有し、一つの体を自在に操る杏と瞬だが、二人の意識は混じらない。重なりあう生と、重ならない命。杏は思う。「自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。思考も記憶も感情もそうだ。」そんな当たり前のことが、一つの体に一つの意識の人々にはわからない。体という殻に意識を制限されているから「体もその感覚も自分そのものであると勘違いしている。」 神経内科医のオリヴァー・サックスは著書『妻を帽子とまちがえた男』の中で、固有感覚をまったく喪失した患者を紹介している。固有感覚とは、自分の体がどこにあってどう動いているかを視覚等に頼らず知覚する能力で、これを失えば人はベッドから起き上がることもままならない。こうした症状は明日あなたや私の身に起こらないとも限らない。意識と体が切り離されたそのとき、こう実感するかもしれない。「みんな気がついていないだけで、みんなくっついて、みんなこんがらがっている。」それが体を超越して杏の見ている世界だ。殻のあるとないとにかかわらず、私たちは複雑な人間関係に絡めとられて生きているのだから。 イレギュラーな身体を通じて、意識の所在という古来の思索に物語は迫る。姉妹という他者と密接に絡まりあって生きてきた体の内で、瞬の意識はかつて棲んでいた孤独の淵を死の汀から覗きこむ。杏と瞬ほどに重なり、絡まりあっても、意識は生と死を孤独に経験するしかない。誰しも一度は問うたことがあるはずだ。どれだけ体を重ねても心は一つになれない。他者は他者でしかなく、人と人は一つに融けあえない。それは何故なのか、と。けれど一つになれないことへの何故と絶望を、文物で共有してきた我々は、同じ一つの何故と絶望を感じることによってくっついているのじゃないか。そんなくっつき方にこそ希望があるんじゃないだろうか。 不変の問いをサイエンスフィクションから文学上にとりもどす試み、新しい血管を作って繋ぐような神の技(ゴッドハンド)を今作に私はみた。朝比奈秋の小説にはいつも、常人の書き手には達しえない飛翔的センスと、あたたかな希望がある。どこまでも翔べるだろう作家の、現時点でも遥か高みの軌跡を私は首がもげそうになりながら追いかけている。 [レビュアー]市川沙央(作家) 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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