「遊女を花にたとえて…」2025年大河「蔦屋重三郎」が手がけた大ベストセラー「吉原遊廓ガイドブック」の「驚きの内容」
蔦屋重三郎の「臨場感ある編集」
1750年に吉原で生まれた蔦屋重三郎の両親がどういう仕事についていたか、わかっていない。樋口一葉の『たけくらべ』では、主人公のみどりの姉が花魁(おいらん)で、父親は妓楼の事務をとり、母親は遊女たちの着物の裁縫や修理をしている。 彼らは廓の外に暮らしているが、中に住み込んでいる人たちもいたであろう。とにかく多様な仕事があった。 7歳の時に母親が家を出た。重三郎は茶屋を経営する親戚の養子になる。その家の屋号が蔦屋だった。1773年、大門の外の五十間道の真ん中あたりに貸本屋を出した。 貸本以外の仕事は、鱗形屋孫兵衛(うろこがたや・まごべえ)という版元の出した吉原細見(情報誌)の改め(調査、情報収集、編集)、卸し、小売だった。吉原細見は暦などと同じく一年に一回発行される定期刊行物で、営業権が必要だった。当時は鱗形屋孫兵衛がほぼ独占していた。 吉原に生まれ育ったのであるから、遊女の交代や妓楼の浮き沈みの情報収集は、日常的にできたであろう。順調におこなっていたところを見ると、妓楼や茶屋や遊女たちからの信頼が篤かったと思われる。 1775年、鱗形屋孫兵衛の撤退にともない、蔦屋重三郎は初めて版元として吉原細見『籬の花』を出した。妓楼ごとに1頁分を使う鱗形屋の小本の細見より大きい中本とし、大門を入って仲の町を歩くがごときイラストにしてその両側に茶屋を描き入れ、横町の両側には妓楼を描き入れた。 情報量は多いがページ数を少なくして値段を抑えた。吉原に行かなくとも、まるでそこを歩いているかのような臨場感を作り出したのだった。臨場感は、蔦屋重三郎の編集の特徴である。 生け花にたとえて遊女を案内した『一目千本』、それぞれの店に案内されているかのように店の筥(はこ)提灯で構成した『青楼花色寄』、1ヵ月も続く俄の祭を浮世絵でドキュメントした『名月余情』、遊女たちの生け花、琴、茶の湯、香道、笛、和歌、俳諧、読書を絵画化して、平安貴族のような遊女の世界を描いた『青楼美人合姿鏡』、個々の遊女の個性的な書を遊女の絵とともに載せた『吉原傾城新美人合自筆鏡』、吉原をひとつの国にたとえて名所案内まで入れた『娼妃地理記』、山東京伝の遊廓ドキュメント『通言総籬』。 そこまでは時代もそのまま、着物持ち物もそのままの江戸現代ものだった。しかし寛政の改革が厳しくなった1791年に出した吉原ドキュメント『娼妓絹篩(きぬぶるい)』『仕掛文庫』『錦之裏』は全て過去の時代を舞台にし、場所も大坂、大磯、神崎とした。そこまで慎重にしてもだめだった。山東京伝は手鎖となり蔦屋重三郎は資産半減となった。 後世に残る蔦屋重三郎の仕事は、むしろその後に展開した。喜多川歌麿と写楽の大首絵である。それらを含め蔦屋重三郎は、吉原遊廓という場があってこその存在だった。 吉原の編集は同時に江戸文化の編集であり、上方に対するサブカルチャーとしての江戸文化の完成度を、極めて高くしたのだった。 さらにこちらの記事<日本人なのに「日本文化」を知らなすぎる…「知の巨人」松岡正剛が最期に伝えたかった「日本とは何か」>では、日本文化入門の決定版として話題の『日本文化の核心』を紹介しています。本記事の執筆者・田中優子さんの著書『遊郭と日本人』とあわせて、ぜひお読みください。
田中 優子