飢餓が目覚め、耐えがたくおそろしいものになっていた(レビュー)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介 今回のテーマは「朝食」です *** 古フランス語の「デジュネ」、つまり朝食は、語源的には「断食破り」を意味する。15世紀、それが英語に直訳されて「ブレックファスト」の語が作られた。 一夜明けて断食を破る朝食のありがたみを伝える小説として、エミール・ゾラの『パリの胃袋』(朝比奈弘治訳)は忘れがたい。表題は19世紀中頃にパリに開設された中央市場をさす。各地から夜を徹して、さまざまな農産物や海産物が首都に運び込まれてくる。その巨大な集積地が中央市場なのである。 ゾラと言えば自然主義の巨匠だが、自然体どころではないあまりに雄渾な筆づかいが特色である。ここでは市場に集まってくる食糧の数々がこれでもかと描き出される。そのただなかに登場するのは、流刑先から命からがら脱出してきた男フロラン。何も食べずに歩きとおしてパリまで来た。食物だらけの市場の光景が空腹を抱えた彼を圧迫する。 「もはや疲労は感じず、ただ苦しいのは飢えだけだった。飢餓が目覚め、耐えがたくおそろしいものになっていた」 共和主義者フロランは政治犯として捕らえられてから七年ぶりに浦島太郎状態で舞い戻った。ナポレオン三世の帝政下、繁栄と飽食を謳歌する者たちのあいだでその姿はあまりに痛ましい。時代の残酷な進みゆきをゾラは活写する。 やがてフロランは弟宅でようやくパンとハムの朝食にありつく。しかし衰弱のあまりろくに食べられないまま昏倒してしまうのだ。 [レビュアー]野崎歓(仏文学者・東京大学教授) 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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