「魔女」と疑われた者はどのような監獄生活を送っていたのか 絶望的な「魔女の塔」のリアル
啓蒙主義と人権思想を生んだヨーロッパの「光」の歴史の裏には、拷問や処刑を通して数多の人間を血祭りにあげてきた陰惨たる「闇」の系譜がありました。そんな非人間的な権力装置の作動をリアルに見つめる『拷問と処刑の西洋史』の著者・浜本隆志氏が、中世に猛威を振るった「魔女裁判」の実際のプロセスを明らかにします。 【写真】塔のなかでは… 魔女裁判は多くの場合、異常気象、害虫の発生、不可解な疫病の蔓延、原因不明の家畜や人間の死、人間関係の軋轢といった実害を受けて起こります。そしてその理由をめぐって、うわさが流れ、告訴(密告)が生じ、容疑者の収監、尋問・拷問、判定、裁判・処刑というパターンをたどるのです。 まずは裁判の第一段階、「収監」のフェーズをみていきましょう。
「魔女の塔」
魔女裁判は、被害を受けた者が魔女とおぼしき人物を直訴して開始されることは稀だった。なぜなら、敗訴すれば裁判費用を負担しなければならなかったからで、もっとも教会から推奨されたのは密告だった。事実、ドイツのフランケン地方のバンベルクでは、1585年4月26日の規定によって、密告者には10グルデン支払われている。また世間のうわさによっても司直は「魔女」を逮捕することができた。その後、かれらは容疑者の家宅捜索を行い、魔術にかかわる証拠物件があれば押収した。 拘束された魔女は、魔術を使うと考えられていたので、ふつう堅牢な塔、地下室に閉じ込められた。そのために、とくに「魔女の塔」伝説が各地に残っている。グリムの『ラプンツェル』では、「魔女」が養女ラプンツェルを塔へ幽閉するが、そのモデルとなったザバブルク城(「魔女の塔」はない)やマールブルク城のなかの「魔女の塔」も、今では観光名所となっている。 資料を手がかりにして詳細に調べれば、バンベルク、フルダ、アシャッフェンブルク城の拷問塔、ラーンシュタイン、シュヴェービッシュ・グミュントのケーニヒ塔など、各地に魔女狩りの痕跡を見出すことができる。 ゲルンハウゼンの「魔女の塔」は、あまり有名ではないが、ヨーロッパ史に興味のある人には必見の場所である。フランクフルトから少し離れたゲルンハウゼンでは、1630年代に魔女を拘束していた塔がオリジナルのまま今なお残っており、そばに魔女追悼の碑が建てられている。 塔は、高さ24メートル、直径9メートルの強固な構造であり、とくに最下層の武器庫にその収監所跡がある。これも現在、内部の一部を見学することができる。 魔女は、厚い壁の部屋に閉じ込められるケースが多かった。魔女という言葉から女性のみと考えられがちだが、男性も「魔女」として訴えられ、収監されていた(ヨーロッパ全般の魔女狩りでは、男性「魔女」は魔女の24%程度。B・P・レヴァック『魔女狩り』)。 1532年に、神聖ローマ帝国皇帝カール5世によって、刑事法典「カロリーナ法」が制定されたが、魔女もこの法で裁かれた。その11条により、魔女は数が多い場合には情報交換できないように隔離しなければならなかった。魔女狩りが多発すると、塔や地下の収監所、監獄が不足してきたので、修道院、倉庫、納屋が代用されたり、あらたに魔女収容所がつくられたりした。 とりわけ後者の例として、バンベルクの魔女収容所が資料的には重要で、これは魔女狩りの嵐がピークをむかえる1627年に収容施設が必要となり、司教領主ヨハン・ゲオルク・フックス・フォン・ドルンハイムによって建設されたものである。 そこには魔女収容所の図面やスケッチが残されており、1階には魔女収監の独房が、廊下を挟んで2列に並んでいる。その突き当たりの半円形の部分が礼拝所になっており、2階も1階とほぼ同様な構造をしている。内部の小部屋には魔女として収監された人びとが足枷、手枷、首枷をされた状態で鎖につながれていた。 また鉄製・木製の十字架に括られる者もいた。そうしないと悪魔が手助けをして、魔女を逃亡させると信じられていたからである。 さらに魔女収容所の別棟が悪名高い拷問部屋になっていた。1630年にここから2人の男性収容者が脱走し、神聖ローマ帝国の皇帝に訴えたため、皇帝の介入とスウェーデン軍の侵入によって、ようやく1631年にバンベルクの魔女狩りは終焉を迎えた。