転校で直面した“問題”「辞めていた可能性あった」 元阪神右腕を悩ませた暗黙のルール
中学1年で転校…野球部の丸刈りに難色「どうしても嫌」
制球力は壁当てで鍛えたという。「民家のコンクリートの塀とか壁に投げていました。いい角度があって、そこにぶつけたら、ちょうどノーバンで返ってくるんですよ。違うところに投げたら、いいところに返ってこない。それが絶対嫌だったんでね」。これには苦情もあったそうだ。「その家のおばちゃんが出てきて『ボク、塀が壊れるからやめて』って。で、違う場所を探して投げていたら、また『壁が崩れるから』とかね。そういうのをずっとやっていましたね」。 運動神経は抜群。「水泳では横浜市の大会でクロールが3位。スイミングスクールとかは行かずに、夏休みにちょっと泳いでいただけだったんですけどね。冬はサッカーも。でも野球の方が好きだったんですよね」。中学では迷わず軟式野球部入りした。だが「1年の夏過ぎくらいに転校することになったんです」。同じ横浜市内の中学だったが、そこで引っかかったのが「野球部は坊主頭にしなければいけない」ことだった。 「どうしてもそれが嫌で、転校してすぐは入りませんでした。数学の先生が監督だったかなぁ。『前の中学では野球をやっていたそうだが、入らないのか』って言われても『はい』って答えて……」。しかし、中学2年になるくらいに意を決して入部したという。「やっぱり野球をやりたいなぁって思ったんですよ。坊主頭にもしました」。最終的には「野球が好き」という気持ちが勝ったが、かなり悩んだそうだ。「何か月かブランクもありましたしね」。 1974年、中学3年の夏にエースとして神奈川県大会に出場した。「2、3回勝って、その時にいろんな高校の監督が見に来ていたようです」。球の速い投手として注目を集めた中田氏は、前年の1973年選抜大会で永川英植投手(元ヤクルト)を擁して初出場初優勝を飾った横浜高校への進学を選択するが、それも中学で丸刈りにならなければ実現しなかったこと。「あの時、野球部に入っていなかったらどうなっていたでしょうね」と当時を思い出しながらしみじみと話した。
山口真司 / Shinji Yamaguchi