物流倉庫のバイトのあとに『柔らかい個人主義の誕生』を読む...私たちは「かわいいが社交に置きかえられた世界」を生きている
「〇〇ガチャ」が浮かび上がらせる「個別化された不幸」
コミュニケーションがなければハラスメントは起きないが、親しくなるきっかけもない。助け合いもできない。「分割して統治せよ」という言葉があったが、労働者が団結するリスクをなくすためにも、コミュニケーションなしがよい。 「〇〇ガチャ」という言葉をよく聞くようになった。たとえば、どの親のもとに生まれるかを景品くじ=ガチャに喩えた「親ガチャ」という言葉がある。人間の一生は運に左右される。 興味深いのは、このような「偶然性」や「確率」という問題は個人の個別化によって登場する、と山崎氏が指摘していることだ(文庫版増補新版『柔らかい個人主義の誕生』解説の福嶋亮大氏がおそらく東浩紀氏の仕事を意識しつつ言及している)。 つまり、人間の不幸も個別化するのだ。集団全体を襲う災難が普遍的な問題として解決されるほど、「あの人は死んだのに、わたしが生き残ったのはなぜか」という偶然性の問題が浮かび上がる。 このような個別化された不幸は、あたかも「悪魔の恣意的な選別」のようにみえて、「運命の不条理さ」を思い知らされる。しかも、「選別的、偶然的に襲来する災禍」は、みずからの不幸を他者と共有できず、「深刻な孤独」へと人を追いやってしまう。 ぼくの考えでは、個別化された不幸が近年のアイデンティティ・ポリティクスの流行と深く関わっている。多くの人はみずからの不幸の偶然性=無意味さに耐えられない。だから、「わたしの不幸ではなく、わたしたちの不幸なのだ」と集団化することで、意味をあたえている。 つまり、わたしの不幸は、わたしが特定のアイデンティティを持つかぎり、宿命的に到来するわたしたちの不幸なのだ、と。 かつて山崎氏はインターネットにおいても「社交」が可能だと指摘した(『社交する人間』)。しかし、いまや、さまざまな「わたしたち」が拒絶し合う場となっている。インターネットは同じ価値観を持つ人ばかりが集まる。お互いにわたしの不幸を慰め合って、わたしたちとして集団化する。 このようにして、こわばった集団主義というべき、アイデンティティ・ポリティクスが流行する。統計的に描かれたわたしたちをわたし自身だと思い込むことによって。ひとつの集団に誠実にコミットするあまり、個人は集団のなかに溶解していく。 しかし、このような集団主義は、個人のさらなる個別化、ひとりで過ごす快適さと矛盾しない。わたしたちのなかで出会うのは、もうひとりのわたしにほかならないからだ。無数のわたししかいない空間は、とても快適だし、深刻な孤独を癒してくれる。