「親が宿題を代行」したのに先生が怒らなかった納得の理由 教育現場は「正論」しか選択してはいけないのか
母は泣きつ、笑いつ、そう言った。先生は照れくさそうにお酒を飲んでおられた。 みなさんは、子どもの習いごとの発表会に足を運ぶ幼稚園の先生をどう思うだろう。先生に弁当を作ったり、花を持たせたりする親をどんな目で見るだろう。子どもの代わりに親が宿題をやる、そんな親を先生がほめ、同級生の親が胴上げをする……。 なんて大らかな時代だったのだろう、と私は思う。つけ届けや過保護を正当化する気はない。先生と親、親と親の<距離感>を聞きたいのだ。
■「公平さ」の名のもとに増える禁止事項 教育者の端くれとして思う。私たちは、教員の公平な態度を考えるとき、親=子=先生の距離感を型にはめて考えがちだ。あるべき距離感、杓子定規な態度を<常識>とみなす。 例えば、バイオリンを習えない貧しい家庭の子がいる。その子と平等にあつかうために、バイオリンを習っているお金持ちの子は特別扱いしない。きちんと自分で宿題をやってくる子がいる。だから親が代わりに宿題をやった子を叱る。
まったくの正論だ。だが、学校の先生は、この<正論>しか選択してはいけないのだろうか。もしそうなら、公平さの名のもとに、禁止事項が増える一方ではないだろうか。 必死に頑張っている、豊かな家庭の子どもを励ましに発表会を見にいく。貧しい家庭の親御さんの苦労を察し、みんなで胴上げをする。お金持ちも、貧しさも関係ない。そんな理由で線を引く必要はない。 時にはある人が、別のときには別の人が、それぞれの頑張りに応じて特別扱いされる。大事なものを大事にする。そんな公平さ、いや、やさしさもあってもいいのではないだろうか。
教育の現場はリベラルになった。昔よりもずっと子どもの権利は保障されている。私はすばらしい変化だと思っている。だが同時に、親も先生も、不寛容で、融通が利かなくなった。 親たちは、<自分の子どもの受益>を<他の子どもの受益>と比較する。モンスターペアレンツを持ちだすまでもなく、教育者への尊敬の気持ちも薄れつつある。 仕事が忙しすぎる先生たちは、子どもや親との適切な距離を探る余裕をなくし、親からの批判を恐れて、定型化された行動を無自覚に受け入れている。