「日本一の戦闘機作れないなら、サーキットで世界一に!」理系のスーパーエリートが手掛けた日本の名車3選
未完の戦闘機「キ94」の技術者が「カローラ」の生みの親
東京帝国大学(現・東京大学)を卒業後、1939年に立川飛行機へ入社した長谷川龍雄さんは、陸軍の対爆撃機用戦闘機「キ94」の設計主務を担当しています。当初は串型、双胴、双発の特異な設計(キ94-I)で設計されましたが、パイロットが脱出する際の安全性やエンジンの生産性の問題から開発中止となり、1944年からはキ87の設計を流用し、機密室を備えた単発戦闘機(キ94-II)として開発が進められました。 戦後、長谷川さんはトヨタ自動車に入社。小型トラックの「トヨエース」を手始めに様々なクルマの開発責任者を歴任しています。なかでも通産省の国民車構想に影響を受けて1961年に誕生した「パブリカ」は、BMW「700」を手本に駆動方式をRRからFRへと変更し、軽量設計の小型車としてまとめられていました。 しかし、同車はその質素さから大衆に受け入れられなかったため、その反省に立って大衆の上級志向に応じた量販車として「カローラ」が開発されたのです。同車は1966年に登場すると商業的に大きな成功を収め、以降12世代に及ぶ世界的なベストセラーにまで昇華しています。 1942年9月に東京帝大を繰り上げ卒業した中村良夫さんは、戦時中は中島飛行機でエンジニアを務めるのと同時に、陸軍中尉として陸軍航空技術研究所や陸軍航空審査部に属し、超大型重爆撃機「富嶽」やジェット戦闘襲撃機「火龍」などの開発に携わりました。
ホンダ第1期F1の立役者は航空エンジンのスペシャリスト
戦後、中村さんは日本内燃機製造(のちの東急くろがね工業、現・日産工機)を経て、1958年にホンダへ入社します。 当時のホンダにはオートバイの技術者しかいなかったため、入社早々、四輪開発部門の責任者を任せられた彼は、S500やT360などの市販車開発の指揮を取る一方で、1964年に始まったF1参戦の責任者にもなります。 1965年シーズンは一時、F1チームの監督を外れるものの、最終戦のメキシコGPで中村さんは復帰。海抜2000mを超える高地でのレースに、航空機エンジニアだった彼の知見が生かされ、ホンダF1の初優勝を実現しました。 1966年に中村さんは再び市販車開発に戻るも、1967年に三度F1の監督に復帰。しかし、1968年にホンダがF1から撤退すると社長の本田宗一郎さんとの確執から、そのまま欧州駐在員としてヨーロッパに残りました。 今回は3人の航空畑出身のエンジニアを紹介しましたが、彼ら以外にも戦後、航空機から自動車へと活躍の場を移した技術者がたくさんいました。彼らの存在がその後の日本車の発展の基礎を作ったといっても過言ではないでしょう。
山崎 龍(乗り物系ライター)