「クオリア」とは…感覚は人によって変わる?【榎政則の音楽のドアをノックしよう♪】
空の色は青いけれども、誰が見ても本当に同じ「青」を感じているのだろうか。そのような疑問を持ったことはありませんか?実際に人がどのように世界を感じているのか、ということは科学で解明することが非常に難しいことで知られています。人の意識に生じている感覚はその人にしかわからないからです。このような感覚のことを「クオリア」と呼んだりします。今日はそのクオリアにまつわる話をしてみましょう。 ◆音程が下がって聞こえる薬 フラベリック錠という比較的よく使われる咳止め薬が、一時期音楽家の間で話題になりました。この薬を飲むと、聞こえる全ての音程が半音下がって聞こえるというのです。これは特に絶対音感を持つ人の間で話題になりました。 半音下がって聞こえるというのは絶対音感を持つ音楽家にとってはかなり危機的な状況です。耳で聞いた音に、手で合わせにいこうとすると、半音下がった音を鳴らしてしまい音楽が崩壊してしまいます。 このような危機の報告が続出し、音楽家の中ではなかば常識になっていました。しかし、医学的な根拠のある情報は少なく、医師に相談してもそもそも理解してもらえない、という状態だったそうです。 この出来事には多くの示唆があります。 まず一つは、人の感覚は薬によって大きく変わってしまうということです。特に絶対音感の持ち主にとって、ハ長調が純粋・無垢・勇壮といったイメージを持ちやすいのに対し、その半音下のロ長調は、神秘・輝き・複雑な心情といったイメージを持つことが多く、全く違う表現を受け取ってしまうことになります。 そしてもう一つは、人によって、同じ現象が起きても受け取り方が異なるということです。絶対音感を持っていなくても、音楽家にとって半音の差は極めて大きいため多少の違和感は覚えるようですが、多くの人にとっては気付くことのできない現象だったようです。 同じ現象を受け取っても、人によってまったく受け取り方が異なるのではないか?そのように思わされる出来事でした。 ◆初見が得意な人には早口の人が多い 音楽家界隈には、初見力(楽譜を見たらすぐに演奏する能力)が極めて高い人がいます。1カ月は練習しないと指が回らないよ、と思ってしまうような難しく複雑な楽譜さえ、見てそのまま弾けてしまう・・・、そんな恐ろしいほどの初見力を持つ人たち、その多くが早口で喋るのです。 こんな仮説があります。 同じテンポでも、人によって捉え方が違うのではないか? これは実証が難しいです。時間感覚というものは基本的に自分の中に生まれたものしか知覚することができないからです。 しかし、高速で初見をこなし、早口で喋るひとを見ると、この人が感じている時間は、他の人よりもゆっくりなのではないか?と思わざるを得ません。 おなじ1秒を感じても、私が感じている1.5秒くらいに感じているのではないか? ところが、これは大問題です。 優美に感じるテンポだと思って弾いていても、それは私にとって優美なだけで、他の人にはせせこましく感じているかもしれません。 逆に、速く、せきたてるような音楽を演奏しても、他の人にはゆったりと聞こえるかもしれないのです。 音楽家は普段、テンポ60と63の差を気にして、議論しながら音楽を作っていきますが、そもそも私が感じている60は、あなたの90かもしれません。 ◆そもそも感覚は良く変わる 子供のころ嫌いだった食べ物が、大人になったら好きになった。この経験をしたことがない人はほとんどいないでしょう。 歳をとるにつれて、味覚は大きく変わっていきます。 味覚が変わったのか、同じ味覚でも感じ取り方が変わったのか、そもそも食材の味が品種改良によって変わっているのか、など「本質的に変化しているのはどこなのか?」という問題はありますが、いずれにせよ、「感覚は状況によって異なる」というのは経験として直感的です。 同じ物語を見ても、子供の頃には無かった視点で見ることができて、全く違う感動を味わった、というのも、同じ話かもしれません。 身体的な変化でも感覚はよく変わりますし、それまでに得た知識や訓練でも感覚はよく変わります。 ◆感覚の実体とは デジタルカメラで撮影したとき、カメラ内部のどこかに「感覚」は生まれているのでしょうか。レンズを通った光がセンサーに当たって電気信号に変換され、コンピュータに通されて保存しやすい数値の列に変換されて、記憶装置に記録されます。 しかし、この一連の流れの中に、人が感じ取っているような鮮やかな色や複雑な感情が生じているようにはなかなか思えません。 一方で、脳の構造や、意識の仕組みがどうなっていようと、確実に存在するものがあります。それは「あなた」の中に生じている感覚です。 他人の中に感覚が生じている保証は全くないですが、あなた自身の中にはかならず感覚があります。(この文章を読んでいるのがAIであれば話は別かもしれませんが) このような感覚のことを「クオリア」と呼びます。 この「クオリア」が指す部分は広く、物を触ったときの手触りや、味、におい、といった五感に加えて、めまいがしたときの平衡感覚や、漠然とした不安、考え事をしているときに頭の中で聞こえている声、など、あなたが知覚している全てのことです。 「クオリア」を人と共有するということは現時点では不可能と断言できるほど、極めて困難です。 しかし芸術家であればこの「クオリア」とは向き合わなければならないでしょう。 ◆あなたとクオリアが共有できない前提で芸術を作る 芸術家の目的とは何なのでしょうか。 ひとつには自身に生じた感覚の共有、つまり「クオリアの共有」というものがあるかもしれません。 あまりにも強い感動を覚えたとき、それを人に伝えたくなります。そっくりそのまま伝えることは難しくとも、「表現」というかたちで自分なりに伝え方を工夫したものが芸術という考え方です。 また、単に自分に生じた「クオリア」をなんとか保存しておくというものかもしれません。 クオリアは自分の中にのみ生じているため、記憶以外では保存が不可能です。しかし、記憶は不安定で、時間とともに急速に失われていくことは、皆さんも日頃経験していることでしょう。 これも「表現」という形でクオリアを保存したものが芸術という考え方です。 そして、人それぞれに生じている「クオリア」の違いを楽しむというものもあります。 クオリアはおそらく人それぞれ違うのだから、むしろそれを受け入れて楽しもうという発想です。 自分が絶望の底にあるような悲しみの旋律を奏でたら、相手が落ち着いた雰囲気と捉えるかもしれません。そのような感覚の違いは芸術のコラボレーションのなかで生まれる楽しい行き違いです。 このようなクオリアの違いは特に即興演奏のなかでよく感じることができます。 共演者と観客が同じ時間と同じ音楽を共有しながら、それぞれに発生しているクオリアを楽しみ、そしてさらに自分の表現を足して新しい音楽を作っていく、というのは即興演奏の醍醐味といえるでしょう。 ◇榎政則(えのき・まさのり) 作曲家、即興演奏家。麻布高校を卒業後、東京藝大作曲科を経てフランスに留学。パリ国立高等音楽院音楽書法科修士課程を卒業後、鍵盤即興科修士課程を首席で卒業。2016年よりパリの主要文化施設であるシネマテーク・フランセーズなどで無声映画の伴奏員を務める。現在は日本でフォニム・ミュージックのピアノ講座の講師を務めるほか、作曲家・即興演奏家として幅広く活動。
福井新聞社