“自分の”彼女が性犯罪にあったら許せない…男子学生の力説に透ける「痴漢の社会・文化的背景」
「“自分の”彼女の被害」が許せない
さらに、法が保護すべき女性の性的権利は、女性自身の固有の権利であるというよりは、むしろ父親や夫の「所有物としての女性」の権利であるという意識的、無意識的なとらえ方が根強く残っている。その見方によれば、性犯罪は、女性の「貞操」を侵害するものであり、それによって女性自身の人権が侵害されたというよりは、女性を「所有する」男性の権利が侵害されたと感じる男性が今なお少なからず存在する。 かつて大学のゼミで性犯罪について学生と議論したとき、ある男子学生が「自分の彼女が性犯罪にあったら許せない」と力説した。しかし、一見正義感にあふれた主張の裏にあったのは、「彼女の被害」が許せないということではなく、「“自分の”彼女の被害」が許せないということであった。 彼はまた、夫や恋人がいる女性に性加害を行うことが、そうでない女性への性加害よりも、悪質であると考えているようだった。こうした主張を聞いた周囲の女子学生は、当然のように一斉に反発した。しかし、彼は彼なりの正義感をもって「性犯罪は許せない。自分は彼女を守る」と主張したのに、批判されたことの意味が最後まで理解できなかったようだった。 明治生まれの男性ならともかく、平成生まれの若い男性ですら、このような女性観であり、それを悪びれることなく「正義感」とはき違えてしまうほどに、この社会には根強い性差別がある。われわれは、それを他人事と考えずに、常に胸に手を当てて検証し続ける必要があるだろう。 (続)
原田隆之