京都国際、センバツ出場辞退 コロナ禍、運悪く /京都
兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で18日開幕する第94回選抜高校野球大会(毎日新聞社など主催)に、2年連続2回目の出場が決まっていた京都国際が開幕前日の17日、出場辞退を大会本部に申し入れ、受理された。新型コロナウイルス禍に見舞われ、部内でクラスター(感染者集団)が発生するなどした。【矢倉健次】 3季連続の甲子園出場で、エース森下瑠大(りゅうだい)投手(3年)をはじめ2021年夏に4強入りしたメンバーも多く残り、頂点を狙える実力があるとみられていただけに、関係者の無念は察するに余りある。これまでも21年夏の甲子園で、大会開始後のPCR検査で選手の陽性が判明した宮崎商と東北学院(宮城)が出場を辞退。21年のセンバツを制した東海大相模も夏の神奈川大会の準々決勝を前に、感染が部員らに広がって出場を辞退し、春夏連覇の夢を絶たれている。 しかし、センバツでのコロナ禍による出場辞退は初めて。出場決定から開幕まで2カ月近くあるため、出場校は念には念を入れて感染対策をとり、たとえ感染者が出ても本番までに対応策をとれる時期も長い。 京都国際も1月28日の出場決定時は学校関係者の感染による休校期間で、練習も休止していた。今回の再びのコロナ禍は、選手全員が寮生活という弱みもあって感染拡大を防ぎきれず、時期も大会直前だった。運が悪かったとしかいいようがない。21年のセンバツで補欠校に選ばれた龍谷大平安も発表の際、寮生活を送る部員7人が感染し、練習休止に追い込まれていることを公表した例もあった。 春夏の全国大会出場が決まっていながら、晴れの舞台に立てなかった過去唯一の京都勢は、1918(大正7)年夏の京都二中。15年に夏の甲子園の前身、第1回全国中等学校優勝野球大会で初代王者となり、18年も当時の京津大会を勝ち抜き、鳴尾球場(西宮市)で開催されていた第4回大会への出場を決めていた。 ところが、この夏に起こった米価急騰による暴動事件「米騒動」が神戸、大阪にも波及したため大会が中止となった。「尼崎に投宿し全国優勝大会に大きな希望を持って待っていたが、米騒動のため大会中止となり、むなしく帰京し解散した」との旨が京都二中の野球部記に記されている。 京都二中にとっては、これが戦前最後の「出場」となってしまったが、46年に再開された夏の全国大会では準優勝。47年センバツ初出場・甲子園での初試合、48年の学制改革による廃校を経て、84年に跡地に開校した鳥羽による記録継承、2000年の53年ぶりセンバツ出場・初勝利と続く、80年以上にわたる壮大なドラマの起点にもなっている。 ちなみに「米騒動」の夏の終わりから「スペイン風邪」のパンデミックが国内でも始まり、約2年間で約38万人が死亡しているが、この間に中等学校野球の大会に何らかの影響があったという記録・記述を目にしたことはない。時代の違いと言えばそれまでだが。 不可抗力に近い理由での今回の出場辞退は、京都国際の選手・関係者にとって大きな痛みを伴い、割り切れない悔しさを感じていることだろう。だが、野球部の歴史は続いていく。今後、大輪の花を咲かせる礎となるよう、選手たちにはこの後も高校球児としての日々を全力で駆け抜けてほしい。 〔京都版〕