やなせたかし夫妻を描く来年NHK朝ドラ「あんぱん」ヒロインに今田美桜 最後の編集者が明かす秘話
「善い人でいなさい」
同年、三越に入社したやなせさんは、宣伝部でグラフィックデザイナーとしての仕事をしながら、漫画を描き始める。 三越百貨店の包装紙に書かれた筆記体の「mitsukoshi」の文字は、やなせさんの手によることを知る人は少ない。日本の百貨店初となるオリジナル包装紙「華ひらく」は、’50年に画家の猪熊弦一郎(いのくま・げんいちろう)氏の手によって描かれ、三越宣伝部の社員だったやなせさんが文字を書き入れた。 「現在の千葉大学工学部でデザインを学んだやなせ先生だったから、猪熊先生は、『文字は君が書き入れればいいよ』と言ったと、のちにやなせ先生に聞きました」 ’53年、34歳で三越を退社し、漫画家として独立したが、「ぼくは40歳を超えてもまだ五里霧中で、挫折どころか、出発していなかった」とインタビューで語っているように、すぐに芽は出なかった。生活のために舞台の構成の仕事や、ドラマの脚本書き、童謡「手のひらを太陽に」の作詞も手がけた。取材の際にやなせさんが平松さんにこう明かしている。 「この仕事はいろいろな経験をすればするほどいい。手塚治虫は大阪大学を出て医者になったが、医学の知識は漫画を描く上で役に立った。漫画を描くから漫画家じゃない。自分の経験を元に人を喜ばせようとする漫画的な精神を持つ人が、漫画家なんだとぼくは思うよ」 代表作の絵本『あんぱんまん』(フレーベル館)が出版されたのは’73年、54歳のときだった。’88年、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』が放映されると、瞬く間に人気を博し、やなせさんは売れっ子になった。69歳で遅咲きの花が咲いた。漫画家として独立してから、なんと25年の時間が流れていた。 ’11年3月11日、東日本大震災が起きたとき、やなせさんは92歳になっていた。視力が低下し、断筆も考えていたそうだが、震災直後、岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」に支援の手をさしのべた。そこには平松さんが関わっていた。 「震災から1週間たった3月18日の夜、私はやなせ先生が待つスタジオへうかがい、故郷・陸前高田市への支援をお願いしました。高田松原の約7万本の松林が大津波で消え、1本だけ残った松の話をすると、やなせ先生は残された松をご自身に重ねられ、すぐに『松の木の歌』という話をかいてくださいました。その話に合わせて歌『陸前高田の松の木』(CD)やハンカチを作ってくださり、松林再生のための苗木代や陸前高田のみんなのために使いなさい」と、各1000枚を寄贈した。 この一本松をやなせさんは親しみをこめて「ヒョロ松」と呼び、保存のための寄付なども行うなど、さまざまな形で支援した。 なかなか売れなかったやなせさんが、なぜ売れるようになったのか。その問いに平松さんは「湧き出す創作意欲と諦めない姿勢。そして、何より善き人であったこと」と分析する。 以前、やなせさんはこんな話をしたという。 「ぼくの仕事のやり方は決まっている。それはまず、人としてよい人になることを目指すこと。芸術家だからといって、周りに迷惑をかけてはいけないのです」 そのとき平松さんは、「よい人とはどんな人?」と質問。やなせさんは、「周りの人から、会いたいと思われる人。そういう人になれば、自然とよい作品ができる。作品がおもしろければ、買ってもらえて、暮らしていける。お金をもうけるのが主眼じゃない。人を喜ばせるのが主眼。そういう気持ちでやっていれば、結果的に報われると思う」と答えたという。 やなせさんが言う「よい人」とは、漢字を当てると「善い人」ではないかと平松さんは解釈している。