ベネディクト・カンバーバッチが狂気を体現 『エリック』の裏に隠されたメッセージを読む
さまざまな事態に対しての解決策となる『セサミストリート』の精神
また、事件の真相に近づいていく過程で明らかになってくるのは、ニューヨークの街のさまざまな問題だ。80年代は、とくにニューヨークでホームレスの増加が深刻となり、路上から追いやられた人々が、地下鉄のトンネルや下水道内の空間で生活する「モールピープル(もぐらびと)」と呼ばれる人々が目立ってきた。ニューヨークのホームレス問題は、現在もコロナ禍以降とくに深刻になっていて、過去と今を結ぶ重要なトピックとなっている。 本作では、街からホームレスを排除しようとする政治家が、パペットの人気を利用して市民の同意を得ようとする場面もある。もともと、裕福な父親との確執などから権威に対して反骨的な精神を持ち、番組にもその意思を反映させてきたヴィンセントは、自分の創造したものが不寛容と排斥に加担するという、悲惨な様子を見せつけられるのである。 そして、この時代は有色人種や性的少数者に対する差別も、現代に比べ苛烈だったといえる。黒人でゲイという特徴を持つ、事件を担当するルドロイト刑事(マッキンリー・ベルチャー三世)は、人種や社会的地位などの違いによって警察の対応が変わる現実や、保守的な組織内で性的少数者であることが明らかになってしまうことへの恐怖に直面することになる。 そういったさまざまな事態に対して唯一の解決策になると考えられるのが、劇中で『おはよう お日さま』のモデルになったと考えられる『セサミストリート』の精神だ。この番組には、人種や性別の違いなどへの偏見を子どもたちに持たせないような配慮がなされてきた。70年にはすでに黒人のマペットが登場し、続いて外国人や自閉症、アジア系のキャラクターが増えていった。そんな多様な存在が、同じ場所で不当な扱いを受けずに生きることができるのが本来あるべき社会だということを、子どもたちに示しているのである。 ヴィンセントと息子エドガーとの共作であるといえるパペット「エリック」は、暗闇に住んでいた孤独な存在だという設定だ。エドガーは、父親が自分を見てくれないという境遇を「エリック」に託し、またヴィンセントも、自分自身を「エリック」に重ねているところがある。 『セサミストリート』の内容を、現実の社会とはかけ離れた「きれいごと」だと考える人も少なくないだろう。だが、いま現在差別を受ける当事者にとって、現実にもそうあってほしいと、切実に願っているはずに違いない。そして、自分がマイノリティの側に立っていないと考える人々も、じつはヴィンセントとエドガーのように、何かしら他人と違う部分があり、その点で孤独を抱えているはずなのではないか。 そういった意味において、多様性やそれぞれの違いを認め合うことは、大事な存在を救おうとすること、そして自分自身を救おうとすることにも繋がっていくはずなのである。本作『エリック』が、厳しい苦難を通り抜けていく物語を通してうったえかけているのは、そういうメッセージなのだと考えられる。
小野寺系(k.onodera)