【対馬丸撃沈から80年】事件生存者の“語り部”は2人だけに 遺族にすら隠された“真実”…「父がいた」64年後に知った人も
■当時10歳 鮮明に覚えていた“沈没の瞬間”
あの日、何があったのか──。それを知る人が、沖縄にいました。当時10歳で対馬丸に乗っていた、上原清さんは2022年、沈没するときの様子を、鮮明に語ってくれました。 上原さん 「眠っているときに“ガーン!”と1発目は揺れ起こされた」 「鈍い音だったな。“ゴーン!ゴーン!”と。『これはやられたな、魚雷だな』と」 わずか10分ほどで沈没した対馬丸。上原さんは沈みゆく船から、海に飛び込みました。気づいたときには、もう対馬丸は沈んでいたといいます。 上原さん 「船が沈むときには、そこに渦ができて、近くにいたら船と一緒に沈んでいく。一生懸命泳いでいって、離れて、後ろを向いたらもう沈んでいた」
■「対馬丸が沈んだということを絶対に言うな!」
沈没から生き延びたものの、上原さんは、食べ物も飲み物もない中、照り付ける真夏の日差しの中を6日間もイカダで漂流しました。 そして、150キロ流され、たどり着いたのは鹿児島県の奄美大島でした。このあたりには、生存者21人を上回る、100人以上の遺体も流れ着きました。1か所に集められた生存者のもとには、日本軍の憲兵隊がやって来ました。 上原さん 「(憲兵は)『日本は絶対に負けない!』と。そういう(対馬丸が撃沈された)ことがあるということは極秘であるわけさ。(憲兵が)『対馬丸が沈んだということを絶対に言うな!』と」 戦意が低下することを恐れた日本軍。厳しいかん口令を敷き、家族にすら沈没の事実を隠したのです。
■子どもを励まし続けた砲兵は「お父さんだったかも」
当時、上原さんは何も語ることができませんでした。ただ、沈没から数時間後、子どもたちと箱舟で漂流する砲兵の姿を見ていました。清子さんの父親と同じ部隊です。 上原さん 「兵隊は時計を見て『あと2~3時間で夜が明けるからね。夜が明けたら助けに来るし頑張ろうね』と(子どもたちを励ましていた)」 2019年、清子さんは上原さんの講演会で初めて、子どもたちを励ました砲兵のことを知りました。 清子さん 「上原さんが、『みんなを励ました人が、ひょっとしたら清子さんのお父さんだったかもわからない』って言ってくれて」 「握手したときに、なんかこう父親とね、握手しているような感じがしましたね」