ヒット番組裏話も!苦悩の上京物語:放送作家・西田哲也物語#2
――正直に教えてくださってありがとうございます(笑)。話を戻しますが、29歳まで悶々とした日々を過ごしていた西田さん。そんな苦悩の時期を乗り越え、やがて東京で成功します。突破口となったのは? 「在阪局が制作する全国ネットの番組ってあるじゃないですか。そういう番組に入れてもらうことが何度かあったんですよ。そんな中、ある東京のスタッフさんに、『どうしたらいいですかね、この中途半端な状況…』と相談したら、『西田くんさ、昔、アメリカの州知事の人が言った言葉があるのよ。“退路を断て”』そう言われたことがありまして。それがものすごく東京っぽいというか、おしゃれな物言いだったんです(笑)。そこで僕も“そうか…俺も退路を断とう!”と。ようやく決意をして、大阪のスタッフさんに『すみません…2年間やらせてもらいましたけど、やっぱり僕、すべて辞めて東京行きます』と宣言しました」 ――“2度目の辞める”だったわけですね。 「そうです。でも、ほんまに大阪の番組を辞めたら、いよいよここで追い込まれましたよね。そこからは、とにかくやれることをやる! 企画書を書きまくりました。大阪での既得権益がなくなったし、普通に考えたら懇意にしていた吉本に頼るとなるのかもしれませんが、何せその時、松本真一を含む僕のライバル2人が吉本におったので…。“俺はとにかく企画書を書こう”と。また、ハイエナのように“がむしゃら”に舞い戻るわけです」
――東京では、作家さんが所属する芸能事務所もたくさんあります。そんな中、フリーでイチから這い上がるというと、かなり難しかったのでは? 「難しかったですよ~。地味な仕事はありましたが、なかなか大きな仕事につながらなかったような気がします。企画書を書いては売り込んで、当時僕、営業ノートみたいなのも書いていましたから。 そんな地道な努力が続き、全国ネットのレギュラー番組や特番にも何本か入れてもらったんですけど、やっぱりそこでもはまらなかったんですよね。 そんな中、僕と同じ時期に上京した『吉本超合金』のADさんが、『ガキ使』のチーフADになったんです。彼とは大阪から出てきた者同士だったので、『西田さん、企画書上手じゃないですか。1度、日本テレビの企画会議に来ませんか?』と誘ってもらって。そこで企画書を出したら、いきなり通ったんですよ。そこからご縁があって、『ガキ』の大友さんと柳岡さんに『西田、話がある。『ガキ』に入らないか』と言っていただいて…。こうして思い返していくと、僕の作家人生は、やっぱり『ガキ使』に入ってから変わったと思います。変身ベルトを持たせていただいたような感じ(笑)。 そこからは、関西弁丸出しの人間も、“こいつ、何かあんちゃうか?”みたいな見え方に変わっていったような気がしますよね。それが34歳の時。あれから16年にわたって番組を続けさせていただいているのは、本当にありがたいです」