絶望の報道の直後、関大・金丸の頭に思い浮かんだ日々と、新たな決意
4年前、自宅のリビングでテレビをじっと見ていた。 兵庫・神港橘高3年だった金丸夢斗(関西大4年)は、野球部の仲間たちと近くの公園で練習をした後、時間に合わせて集まった。 【写真】関西大学の金丸夢斗=2024年10月11日午後、大阪府吹田市、伊藤進之介撮影 全員がマスク姿。新型コロナウイルスが蔓延(まんえん)していた。毎日、死者数が更新される未知のウイルスの脅威に不安を抱きながら、この夏の全国選手権大会が開催できるかどうかの判断がなされる時を待っていた。 2020年5月20日午後6時すぎ。甲子園と地方大会の中止が発表された。 「まじか……」。どこかで覚悟をしていたはずだったのに、「頭が真っ白になった」。 自問した。「ここで野球を終わっていいのか」。そんなときに頭に思い浮かんだのは、父・雄一さんと過ごした日々だった。 元球児の雄一さんはアマチュア野球の審判をしていて、甲子園でも長くジャッジを務めた。休日になると家族で地方球場に行き、外野の芝生に座りながら父の審判姿を見るのが好きだった。 兄も自分も、その影響で野球を始めた。金丸は左利きで投手をやっていたが、同年代の子と比べても体が小さく、球も遅い。投げるたびに打たれて泣いていた。それでも、「ただただ野球が好きで、プロ野球選手になりたかった」。 中学まで目立った活躍もなく、強豪の私立高校から声をかけられることはなかった。 地元の神港橘高に進んだ。1年生のときの身長は150センチ台。同学年の中で2番目に低かった。それでも高い制球力を武器に2年生の秋、背番号1をもらった。 最後の夏こそ甲子園に――。その目標がなくなった。金丸は顔を上げた。 「父が甲子園で審判をしている姿を見て、自分も甲子園のマウンドに立つという目標も持てた。野球というスポーツにも出会わせてくれたし、夢を与えてくれた。何とか良いところを見せたい」 大学を経て、プロ野球選手になる。そう決心した。
朝日新聞社