唯一の「自衛隊違憲」判決から50年、長沼ナイキ訴訟を担当した93歳元裁判長の憂い 厳しさ増す安全保障環境、続く自衛隊の機能拡大…それでも言いたいこと
また、裁判史上初めて、有事の際には基地が攻撃目標となり、周辺住民の「平和のうちに生存する権利」(憲法前文)が侵害される危険があるとして、この「平和的生存権」を判決で具体的権利として認めた。「憲法判断なしには、紛争の本質的な解決にならなかった」と福島さん。「違憲判決を書いたら冷や飯を食わされるだろうと思いました。裁判所の態勢がそうだから。左遷されれば、辞めて弁護士になろうと思っていました」 ▽覆った判決、外れた出世コース。今も残る基地 しかし、この判決は上級審には受け入れられなかった。国側の控訴を受け、札幌高裁は1976年、高度な政治性を持つ国家行為については裁判所の審理対象にならないとする「統治行為論」を展開して、福島さんが正面から向き合った憲法判断を回避。一審を覆し、保安林指定解除を認めた。最高裁は1982年、自衛隊の憲法適合性には触れないまま原告の上告を棄却。国側の勝訴が確定した。 福島さんは札幌地裁の後、東京地裁の手形部に異動した。その後も、配属を希望していない福島家裁、福井家裁を回り、二度と大きな裁判所の裁判長席に座ることがないまま、定年前の1989年に退官した。福島さん以降、自衛隊の存在自体を違憲とした判決はない。退官後は、郷里の富山市に戻り、公証人として働いた後に弁護士となった。
基地は建設され、現在も航空自衛隊長沼分屯基地として運用されている。基地の目の前で馬が放牧され、周囲に果てしない緑が広がる景色は昔と変わらないが、基地のミサイルは、ナイキJから後継の「パトリオット」に替わった。 藪田さんによると、訴訟をしていた当時は安全保障上の重要性を説く知人もいて、顔を合わせれば口論になったという。「やがて、お互いに話してもらちが明かない、となった」と語る。訴訟の終結後も住民間の「しこり」は残った。「裁判に意味があったのか、反対派の間にも迷いが生じた。今も当時のことを話したがらない人は多い」と嘆く。 ▽「長沼の時より悪くなっている」 50年の間に自衛隊は大きく姿を変えた。1991年のペルシャ湾派遣を皮切りに、海外活動が増加。2014年の集団的自衛権の行使容認に続き、昨年には反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有が決まり、さらに機能拡大が図られている。 福島さんは50年前の判決に「間違ったことはしていない。後悔はない」と言い切り、こうした状況を「憲法無視だ」と強調する。