オウム死刑執行 今も残る教義、今後の「教団」は?
宗教団体がテロ集団に変貌した瞬間
1990(平成2)年2月に衆議院選挙が行われました。麻原は自分の欲望を満たすために、教団から自分を含め25人の候補を立てて国政に乗り出そうとしました。選挙キャンペーン中のマスコミインタビューに自信たっぷりに全員の当選を吹聴する麻原は、大真面目に政権奪取を視野に入れていたように見えました。しかし、結果は全員落選でした。当時から有権者はオウムの欺瞞性、独善性に十分気づいていました。いくら嘘で固めた言い訳をしても世間の目を欺くことはできませんでした。 この時点で麻原のプライドはズタズタになったのでしょう。選挙妨害をされたと妄信して社会への復讐を誓ったのもこの頃と考えられます。猛毒ガスのサリンやVXなどの大量破壊兵器を製造し、自作自演の「ハルマゲドン」が来ると予言しました。こうしてオウム真理教は無差別テロを含む一連の事件を引き起こし、破滅へと向かったのです。 近代国家では、このような大罪を犯した犯罪者は法で裁かれるのは当然です。虚言や黙秘だけで裁判まで誤魔化すことはできません。その意味で今回の7人の死刑執行は極めて理にかなった正しい決断だと思います。
短期的にはテロの可能性は高くない
拘置所に収容されていた麻原はただの犯罪者でした。カリスマ性もありません。しかし、麻原に洗脳されて絶対服従を誓った信徒はまだ後継団体に沢山残っています。麻原が創設し、一時は1万人以上の信徒がいた教団の教祖であれば、当然信徒たちは麻原の神格化を考えるでしょう。 ここで麻原が後継団体の「アレフ」や「ひかりの輪」で神と崇められたとしても、信徒は麻原がかつて望んでいたような国家体制の転覆、意図的なハルマゲドンを実現しようとするでしょうか? 確かに麻原の危険思想は、彼の著作の中にもテープにも残っていると思います。そうした内容は、麻原が拘置所に収容されている間も、信徒は自由に見ていたはずです。それでも、組織自体は欺瞞性を引きずりながらも、1995年の地下鉄サリン事件以降、何も起きませんでした。それは麻原の身柄を奪還しようとしたり、テロを起こしたりする意図が既に教団になくなってしまったからでしょうか。それとも、警察や公安調査庁の監視が厳しく何もできなかったからでしょうか。筆者はその双方が理由だと考えています。 前者については、オウム真理教という組織は、麻原が自分の欲望を満たすために主導した組織という色彩が強いことに注目すべきでしょう。一連のオウム事件の裁判での元信徒の供述でも、信徒たちが麻原の絶対命令を受けて盲目的にテロに走ったという側面も見えています。 今の信徒たちは、自分たちの信仰をそっとしておいて欲しいと強く要求しています。その辺りに欺瞞体質が見え隠れしているとも思えるのですが、麻原という絶対的な指導者を失った今、教団にテロを起こすだけのエネルギーが残されているでしょうか。現在の指導者の中には、テロを命じるだけの絶対権力を有する人物もいないでしょう。したがって、短期的には教団が教祖の死刑を理由に自暴自棄に陥って危険な行動に出るとは考えにくいと思います。G20などの国際会議、東京五輪・パラリンピックなどのスポーツ・イベントを狙うという可能性も高くはないと思います。 しかし、全く危険性がないということではありません。麻原の「目的達成のためなら殺人をも許容される」という「タントラ・ヴァジラヤーナ」という教義は残っています。長期的には、例えば教団に対する観察処分が却下されたり、米国務省による外国テロ組織(FTO)の指定が解除になって国際社会の監視が弱まったりすることに危うさも感じます。FTO解除によって、信徒が米国に自由に出入りできるようになったり、米国での資金活動、宗教活動が許されるようになった場合、手かせ足かせが外れた信徒たちが再び暴走する懸念があります。 特に、拠点のあったロシアの信徒など、日本より武器が調達しやすい外国から援助を受ければ、麻原はじめ他の幹部の報復も可能と考える信徒がいるかもしれません。死刑執行後に行われた公安調査庁の教団施設への立ち入り検査の状況を見る限り、後継団体の現在の信徒が麻原の死刑に反発心を抱き、検査に非協力的であることは明白でした。 そういう意味でも、野放しにしておけば何を企むかわからない教団に対しては、引き続き観察処分を含む厳しい監視体制下に置く必要があると考えます。公安調査庁によれば、死刑が執行されたとはいえ、麻原の危険な教義はいまだに教団の活動に影響力を残しています。また、一連の事件に関与して刑期を終えた信徒もなお後継団体の構成員であり、さらには、教団の閉鎖性、欺瞞性も昔と変わっていないことなどが、教団の危険性が続いている理由として掲げられています。