1936年、東京巨人軍VS名古屋金鯱軍 日本初のプロ球団対決の地 現在は自動車学校に
名古屋市にかつて存在した鳴海球場は、日本プロ野球史上、初めてプロ球団同士の対戦が行われた「始まりの場所」だ。1936年2月9日、東京巨人軍と名古屋金鯱軍が争った試合は、10―3で金鯱軍に凱歌。翌日からの2戦は巨人が連勝し、3連戦で2勝1敗と面目を保つ形となった。この鳴海球場、現在は自動車学校に転用されているものの、27年に建設された当時のスタンドがいまだに残っている。野球文化遺跡とも言うべき鳴海球場跡を訪れ、いにしえの名勝負に思いを馳(は)せてみた。(樋口 智城) 【写真】ルーキー原辰徳の華 多摩川キャンプにファン1万人と警察官15人&パトカー3台 記念すべき日本初のプロ野球球団同士の試合が開催されたのは、現在のNPBのルーツ・日本職業野球連盟の創立総会が開かれた1936年2月5日の4日後。巨人の第2回米国遠征出発直前の対戦で「巨人渡米送別試合兼金鯱軍結成試合」と称して行われた。金鯱のオーナーでもある名古屋新聞は当日、「日本最初の職業野球戦」と大々的に報道。「きょうの予想」の欄には「沢村一人に対し金鯱の多士済々」と巨人のエース・沢村栄治との対決をあおる見出しをつけた。 盛大なセレモニーのあと、午後2時35分に試合開始。巨人は1回に2点を許すと、2回1死満塁からマウンドに上がった巨人・沢村も打ち込まれる。2死後、4番・黒田健吾に右翼線への走者一掃二塁打を喫し、あっという間に0―5となった。沢村は3―5で迎えた7回にも2失点。この回で降板し、5回1/3を4安打6四球、自責点2だった。 巨人は3―10で敗戦。戦評を記した名古屋新聞には「日本無敵と自他ともに許す強剛巨人軍へかくも見事に十対三のスコアで堂々の初陣ぶりを示して凱歌をあげようとは、戦前誰が予期したことか」。当時の巨人は最強軍団と認識されていたことが分かる。続く第2、3戦は巨人が8―3、4―2で連勝して面目を保った。一方で観客の入りは芳しくなく、2万人収容の球場で2000人程度だった。 鳴海球場は58年に閉場したが、当時をしのばせる遺構がいまも残っている。跡地に建てられた名鉄自動車学校は、鳴海球場の形状を利用して造られた。空撮写真を見れば一目瞭然。一塁側と三塁側のスタンドもほぼそのまま存在しており、旧ダッグアウトは教習の教室などに使用されている。 地元有志で作る「鳴海歴史倶楽部」の高橋敏明会長(76)、堀川幸男事務局長(80)とともに、跡地を歩いてみた。スタンドは建設されて97年たつが、目立った補修はされていない。それでいてボロボロの感はなく、むしろ風格すら漂っている。堀川さんは「当時は東海地方の球児憧れの球場でした。いま見ても、作り自体がしっかりしていたことがうかがえます」と解説する。 許可を得てスタンドに上ってみると、球場の広さが実感できた。「建設時のコンセプトは『東の神宮、西の甲子園に負けない球場』だったんですよ」と高橋さん。両翼106メートル、センター136メートルのサイズ感と貫禄に、愛知県人の誇りが垣間見えた。 跡地には、現在も月1回程度、野球ファンが訪れる。名鉄自動車学校総務部の金子淳志課長(50)は「先月も問い合わせがありましたよ。懐かしむ方がいまだにいらっしゃるのは、うれしいことですよね」。現在のプロ野球の歴史が始まった記念碑的な球場は、一部が奇跡的に残ったことで、いまだ多くの人に愛されている。 なぜここで?後楽園開場前、合宿地静岡から近く 〇…「プロ初試合」は東京でも大阪でもなく、なぜ鳴海球場で行われたのか。当時の巨人は、米遠征前の合宿を静岡・草薙球場で張っていた。東京は後楽園球場の開場前で、プロ野球を開催できる球場は当時なく、神宮球場は学生野球専門。静岡から最も近く、東京以外で開催できる場所と球団はどこか? その結果、愛知県の「金鯱軍」と「鳴海球場」が選ばれたという。
報知新聞社