【世界の野球アメリカ編】「メジャーリーガーになる!」19歳の無謀な挑戦
初渡航したアメリカで仲間に頼み、丸刈りになる19歳の色川冬馬さん。英語が話せない中、こうして場を盛り上げることも重要なコミュニケーション手段の一つだったという(2009年当時の映像)
【連載・色川冬馬の世界の野球】 2015年から、野球のパキスタン代表監督を日本人の色川冬馬さん(25)が務めている。選手としてアメリカの独立リーグやプエルトリコ、メキシコのリーグでプレーし、その後代表監督としてイラン、パキスタンの代表チームを指揮した色川さん。これまでの経験を通じて世界各地の野球文化や事情を紹介するとともに、日本野球のあるべき姿を探っていく。 ◇ 2009年1月、19歳になった私は人生で初めてアメリカの地を踏んだ。何か特異な能力に長けている訳でもなかったが、「メジャーリーガーになる!」と意気込み、新たな冒険とチャンスにドキドキしていた。
無謀な挑戦に賛否両論
スカウトから声をかけられたことはない。英語は話せない、勉強も中途半端。そんな自分が嫌で、何かを変えたくて、根拠のない自信とともに渡米した。「プロ野球選手になる」という小さい頃からの夢を、誰も進んだことのない道でつかんだら「かっこいい」と思っていた。当時大学生だった私は、所属していた野球部を半年もしない間に退部し、アメリカに行くためにアルバイトと、トレーニングに没頭する日々を過ごしていた。 そんな私の無謀な挑戦に、同級生も大人も賛否両論だった。鼻で笑い、冷たい言葉であしらう人、一生懸命に耳を傾けてくれる人。しかし、どれもすべてが私の挑戦への意欲をかきたてた。未知の世界への挑戦に、私はただ夢中になっていた。 私の高校の野球部は「野球には無限の可能性がある」という言葉を掲げ、「球史創造」とうたい、高校野球の歴史を創ろうとスタートした新設の野球部だった。高校野球界では珍しく、球場を持たず、坊主にせず、そして、時に背番号決めは公式戦までの打率順で決めるなど、常識にとらわれない挑戦をいくつもしてきた。強豪私立が野球の本場アメリカに遠征へ行く中、私たちはタイへ遠征していた。結果、甲子園という夢の舞台へ届く事はなかったが、そんな稀有な経験が「アメリカ挑戦」という、人生の旅をスタートさせたのかもしれない。