大阪万博の彫刻、長崎・出島に今もひっそり…ポルトガルが寄贈、なぜそこに?
1970年大阪万博で展示されたポルトガルの野外彫刻が、長崎市の国史跡「出島和蘭商館跡」にある。友好の証しとして、ゆかりの深い長崎県に寄贈されたが、知る人は少ない。半世紀余りたった今年、大阪・関西万博(4月13日~10月13日)が開催され、再び光が当たるかもしれない。 屋外の大型模型「ミニ出島」をバックに記念撮影しようと、たくさんの観光客がカメラを構える。そのそばに、さびて緑がかった金属の彫刻がひっそりとたたずんでいる。 市出島復元整備室などによると、長さ4・7メートル、高さ2メートルの真ちゅう鋳物製。ポルトガル彫刻界の巨匠マルティンス・コレイア(10~99年)が制作し、名称は「フレンドシップメモリー」。万博終了後、同国政府から寄贈され、県が同市立山1丁目にあった旧県立美術博物館で保管、展示した。73年、市が出島の史跡整備をする際、譲り受けた。途中、倉庫に置かれていた時期もあった。 71年3月に同博物館であった「日本万国博ポルトガル展」の本紙記事によると、日本に貢献したポルトガル人らの業績を造形的に表現。女性と男性の水平裸身像の周囲に6人の横顔レリーフを配置し、全体を船の形に構成したという。当時は白く塗られていたようだ。 6人は▽フランシスコ・シャヴィエル(ザビエル、1506~52年)▽ジョルジュ・アルヴァレス(年号表記なし)▽ルイス・デ・アルメイダ(25~83年)▽ルイス・デ・フロイス(32~97年)▽ジョアン・ロドリゲス(61~1634年)▽ヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854~1929年)。ザビエルだけスペイン人だが、ポルトガル国王によって日本に派遣された。レリーフの裏側にはそれぞれの功労が日本語で刻まれている。 長崎県とポルトガルの関係は古い。同国人が鹿児島種子島に鉄砲を伝えた7年後の1550年、同国船が平戸に初来航。71年には同国船来航を起点に長崎が開港し、南蛮貿易で栄えた。パンやボタン、カステラなど同国語が語源のものは多い。やがてキリスト教布教が禁止され、1636年に出島が完成。市中に住む同国人を隔離した。39年、同国船の来航を禁じる鎖国令で国外に追放され、代わりに41年、オランダ商館が平戸から出島に移された。 現在、出島内の展示はオランダ関連がほとんど。出島への収容期間がわずか約3年のポルトガル関連は、この彫刻以外に歴史解説パネルと船の模型と希少だ。ポルトガルからの来賓には市が案内している。 県長崎学アドバイザーの本馬貞夫氏は「6人中4人はイエズス会士。彼らの日本での活躍ぶりや、かつてポルトガル人たちが長崎に根を張って生活していたこと、もともと同国の商人を収容する場所だったことをを踏まえれば、(彫刻の設置場所として)出島はふさわしい」と話す。