編集者・菅付雅信が見た篠山紀信 大判カメラで人も時代も「激写」
菅付雅信グーテンベルクオーケストラ代表取締役は、写真家の篠山紀信と組み、現場をともにして数多くの写真を世の中に送り出してきた編集者の一人だ。写真家・篠山紀信との仕事やその裏側、ファッション写真との関係について寄稿した。 【画像】編集者・菅付雅信が見た篠山紀信 大判カメラで人も時代も「激写」
写真家の篠山紀信が83歳で死去
篠山紀信の訃報を知ったのは、友人のコラムニスト、中森明夫からのダイレクトメッセージだった。受け取ったのは1月5日の午前4時48分。メディアでのニュース発表よりも先だった。篠山とタッグを組んだ『週刊SPA』の長期連載「ニュースな女たち」の執筆を手がけ、数々の篠山写真集のテキストを手がけた中森は「まだ、心の整理がつきません」とメッセージに記していたが、それは私も同じ思いでこの追悼文を書いている。
篠山紀信に関して、多くの説明はいらないだろう。1940年東京生まれ。日本大芸術学部写真学科在学中に写真家として活動を始め、ライトパブリシティに入社。68年にフリーになり、山口百恵、ジョン・レノン、三島由紀夫、松田聖子などの時代の象徴を取り続けてきた。篠山による宮沢りえの写真集「Santa Fe」は165万部という記録的な売り上げを誇り、2012年から全国を巡回した「篠山紀信展 写真力 THE PEOPLE BY KISHIN」は累計入場者数が100万人を突破。60年に渡って時代の最前列に立ち、写真家を超えた時代精神の表現者、それが篠山紀信だ。彼が写真にすると、被写体は時代のシンボルになった。そして彼はそれを明確に意図して写真にしていった。
編集者として150本の撮影に立ち会う
編集者として、私は篠山と約150回もの撮影の現場を経験している。最初の出会いは1991年に建築家の故・丹下健三を、完成間近の東京都庁で撮影したもの。当時『エスクァイア日本版』編集部にいた私は、編集部への丹下サイドからの売り込みで「東京都庁のデザインが批判されているので、丹下がその建築意図を自ら語りたい。写真は日本で一番いい写真家に撮って欲しい」との提案で、それなら篠山紀信しかいないと考え、何の面識もない篠山に依頼し、快諾して撮影することが出来た。実は大の撮影嫌いの丹下は、撮影時間は5分以内という厳密なオーダーが彼の秘書から出ていたのだが、篠山の見事な話術とハイテンションに丹下もほだされ、5分の予定がなんと2時間にも及ぶ熱いフォトセッションとなり、篠山の人間力に圧倒される場となった。