行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張―大井赤亥『政治と政治学のあいだ: 政治学者、衆議院選挙をかく闘えり』
政党と選挙を基盤とした議会制民主主義という現実の「政治」と、大学や学会のなかで高度な専門知を再生産する学問としての「政治学」。その「あいだ」に堂々と立ち、研究・教育に携わりながらも2021年衆議院選挙に小選挙区から出馬した気鋭の政治学者は、どのような思いを抱いていたのか。このたび刊行された大井赤亥さんの新刊『政治と政治学のあいだ――政治学者、衆議院選挙をかく闘えり』より、第5章の冒頭を抜粋して公開いたします。 ◆行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張 2020年、それまで東京のいくつかの大学で政治学を教えてきた私は、郷里の広島に戻り、来たる第49回衆議院選挙に立候補することになった。すなわち、政治学者が国政選挙に飛び込むことになったのである。 ヘーゲルが述べたように、知恵の象徴であるミネルヴァの梟は、街に夕闇が降りる黄昏時に飛び立ち、その日にあった出来事を認識する。すなわち、現実が完結した後に、それを認識する学問が生じる。 その譬えに倣えば、私は夕闇が降りるのを待ちきれずに飛び立った梟だ。しかし、夕闇に飛び立つミネルヴァの梟は、では日中は何をしていたのだろうか? と啖呵を切ってみたいもう一人の自分を抑えきれずにいたのも事実である。 時折、研究の世界から政治の世界に飛び込んだ自分が、いわゆる研究者業界からどのように見られていたのか、ふと気になることがあった。いろんな噂もあるだろうが、気にしても仕方ないわけで、文字通り「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」(勝海舟)という他ない。 ただ、「あいつは政治に飛び込んで学問を捨てた」と思われたとすれば、それほど私の実感と違うことはない。むしろ自分が研究してきた現代政治について、「なるほど、現場はこうなっているのか」と発見することが多かった。知識として知っていたことも、実際の経験を通じて把握することで、説明する時の言葉の説得力は格段に重くなった。 わかっていたことではあるが、大学というのは、注意深く選別された人たちが集まる極めて特殊なコミュニティである。たとえば、大学の教員控室では、おしなべて合理的判断を心がける一群の人々が、授業準備をしたりコーヒーを飲んだりしながら、「維新みたいなチンピラを誰が支持しとるんだ」、「有権者分かってないね」など、ひとしきり政治への批判めいた歓談を交わしては授業に出かけていく。 率直なところ、私自身、そういう場所にいて居心地よかった。大学にはある種の予定調和があり、学生たちも、教員が持つ単位認定権という小さな権力のために決まった時間に集まって90分にわたり黙って話を聞いてくれる。 しかし、選挙に身を投じた途端、上下左右に爆発的に人づきあいがふえる。これまで何の縁もなかった人々、存在さえ知らなかった職業の人々と否応なく接触する。好きか嫌いか、インテリかどうかなど構っていられない。選挙というのは、一票を求めて政治家に地域を這いずり回らせる工夫であり、立法府を担う代表に無理矢理に人と接触させて、その利害や価値観を把握させる憲法上の要請なのである。 [書き手]大井 赤亥(政治学者) [書籍情報]『政治と政治学のあいだ: 政治学者、衆議院選挙をかく闘えり』 著者:大井赤亥 / 出版社:青土社 / 発売日:2023年12月26日 / ISBN:479177616X
青土社