『花子とアン』蓮子のモデル、柳原白蓮―― フェミニンなだけじゃない、その素顔
NHKの連続ドラマ『花子とアン』で「主役以上の存在感」と評されるのが、仲間由紀恵演じる「蓮さま」こと葉山蓮子だ。モデルは言わずと知れた柳原白蓮こと柳原あき(火偏に華)子。明治18(1885)年10月15日、柳原前光(さきみつ)伯爵と芸妓おりょうとの間に生まれ、15歳で北小路資武(すけたけ)と結婚。もちろん本人が望んだわけもなく、一男をもうけるが20歳で離縁、柳原家に戻る。 *殊更に黒き花などかざしける わが十六の涙の日記 結婚のため華族女学校(現学習院女子中・高等科)を中退したあき子は、24歳で東洋英和女学校に転入。ここで腹心の友、8歳年下の安中はな(村岡花子)と出会う。若さの赴くままひたむきに英語を学ぶ、自由な風のようなはな。ろうたけた美しさの中に孤独と哀愁の影を宿したあき子。相寄る二人のやりとりは村岡恵理著『アンのゆりかご』に詳しい。 「あきさまに会ってから、勉強がいままでよりも一層張り合いができて、楽しみになったのよ」 「私の目と耳になってちょうだい。英語の本を読んで私に聞かせてちょうだい」 オルコット、ブロンテ、ブラウニング……はなが語る西欧の文学、そして折々にあき子が詠み聞かせる歌の数々。それぞれが互いを触発した。 あき子は、はなを自らも師事する佐佐木信綱の短歌結社「竹柏会」に誘う。はなはここで古典を学び、片山廣子ら文学を志す女性たちに出会った。さらに二人は東洋英和が運営する孤児院でともに奉仕活動にあたる。その体験はあき子の視野を広め、後の社会活動の素地ともなった。 明治44(1911)年3月、あき子は卒業を待たず九州筑豊の炭鉱王、伊藤伝右衛門と結婚。親子ほども年の離れた52歳の「成金」との結婚は人身御供とも揶揄されたが、あき子は忍従に甘んじたわけではない。ヤマの荒くれた物言いやふるまいを改めようと奮闘したさまは、永畑道子著『恋の華 白蓮事件』にも描かれている。が、そうした試みは当然ながら孤立を招く。 *われは此処に神はいづくにましますや 星のまたたき寂しき夜なり 心の憂さを託した処女歌集『踏絵』に続き、『几帳のかげ』『幻の華』を刊行、才能と美貌から「筑紫の女王」とも呼ばれたあき子が、東京帝大生の宮崎龍介と出会ったのは大正9(1920)年1月のことだ。 東大新人会と黎明会(吉野作造ら民本主義者による言論団体)による雑誌『解放』に戯曲『指鬘外道(しまんげどう)』を寄稿していたあき子のもとへ、単行本化の交渉に訪れたのが龍介。日本に亡命中の孫文を助け、辛亥革命を支援した思想家・宮崎滔天の長男だ。華族の娘として、資本家の妻として旧体制に縛られていたあき子は、資本主義の矛盾を語り民衆の連帯を夢見る7歳年下の学徒に強く惹かれた。出会いから5ヵ月後、四つ葉のクローバーとともに送られたというあき子の手紙にはこうある。 「こんな恐ろしい女もういや いやですか いやならいやと早く仰い さあ何うです お返事は?」 翌大正10年夏、あき子を「プチブルの権化」と見る仲間との確執から、龍介は新人会を脱退。世に伝わる白蓮事件は2ヵ月後の10月20日に起こった。 「同棲十年の良人を捨てヽ白蓮女史情人の許に走る 東京驛に傳右衛門氏を見送り其儘姿を晦ます」 10月22日『大阪朝日新聞』1面の見出しだ。他紙夕刊も追随し、事件はワシントン会議へと向かう徳川家達、加藤友三郎両全権大使を乗せた鹿島丸にも打電された。『大阪朝日』は同日夕刊に「私は今貴方の妻として最後の手紙を差上げます」に始まる絶縁状を公開。が、これは世論を味方につけようと龍介らが謀ったもので、『朝日』は前日に情報をつかんでいたが、絶縁状と引き換えに掲載を延期したとも言われている。 あき子と同じ佐佐木信綱門下であった長谷川時雨は、絶縁状の印象を「字句がなにやらん書生風で(略)情熱の歌人の書いたものとしては欠けたもののある感じと、踊らせよう、騒ぎ立たせようとする意図があるふうにも感じられる」と記している。 スクープを逃した『大阪毎日』は、事件後4日目の社会面冒頭に「臆面もなく両人の関係を口外し居る如き実に鼻持ちならぬ」「立派な理性を備へた人と思ふておりましたのに、一旦他に嫁いだ以上、十年の後かかる行動に出なければならぬやうなことは有る筈はないと思ひます」と女性評論家2人の論評を掲載。翌25日から伝右衛門の口述として「絶縁状を読みてあき子に与ふ」と題する連載を始めたものの、4回で打ち切っている。 内容の多くは記者の創作であり、本意ではなかった。その後伝右衛門は一族を集め、「末代まで一言の弁明も無用」と言い渡している。あき子の父前光は大正天皇生母の兄であり、時の天皇と血縁にあるあき子を訴えることは現実的に困難、宮崎龍介の思想的背景から労働争議の標的になりかねないとの危惧もあり、伊藤家にとっても早期解決は望ましかった。 事件後12日目、伊藤、柳原両家の親族会議で、正式に離縁が決まった。そして「弁明無用」は、現在も伊藤家の家訓として残る。