『花子とアン』蓮子のモデル、柳原白蓮―― フェミニンなだけじゃない、その素顔
世間が騒然とするなか、あき子の心を癒したのは旧友の便りだった。『アンのゆりかご』には、村岡花子とのこうした書簡が紹介されている。 「斯くいふ際には兄弟や身内など何もなりはしませぬ。本当の心を知ってくださる友ほど有難いものはない」 「あなたの今日のことについては人がよく言はふが悪く言はうが何とも思いません。(略)すでに為されたことは為されたのです。只あなたと私とが永久に離れない友だと言う事さえ定まっていたら」 大正11(1922)年5月、柳原家によって半ば幽閉生活を強いられながら、あき子は長男の香織を出産。翌12年、関東大震災直後の混乱のさなか、ようやく幼な子と宮崎の家に入った。ほどなく華族籍から離れ、一平民となったあき子が直面したのは現実の生活。龍介の父・滔天は多額の借財を残したまま没し、弁護士資格をもつ龍介は結核を再発させていた。 一家を支えるためあき子は童話や小説、恋愛論と夜を徹して執筆に打ち込む。その傍ら政治活動にも取り組み、ときにはちゃんちゃんこ姿で集会に参じ、銀座の街頭では短冊に歌を書いて販売した。そんなあき子を宮崎家の食客たちは「母ちゃん」と呼んで慕ったという。 *子らはまだ起きて待つとや生け垣の 間よりのぞく我家のあかり 早大政経学部から学徒出陣した香織を終戦直前の8月11日に失ったあき子は、戦後の平和運動に邁進した。国際慈母の会を結成し、世界連邦婦人部へと発展させ中心メンバーとして活躍。書物と筆を風呂敷に包み、全国を行脚した。晩年は脳貧血に倒れ緑内障で失明するも、龍介に支えられて歌を詠み、昭和42年2月22日没。相模湖の裏側、石老山の顕鏡寺に香織とともに眠っている。 「金冠をもぎとった、爵位も金権も何もない裸体になっても、離れぬ美と才と、彼女の持つものだけをもって粛然としている」(長谷川時雨『近代美人伝』) (文責・武蔵インターナショナル)