【引退か復帰か】ダウンタウン「松本人志」と「島田紳助」の奇妙な共通点とは? タブーになった暴力団と芸能人の繋がりを振り返る
2代目山口組・山口登組長と芸能界
1925年、山口組の初代、山口春吉は組長の座を実子の登に譲りました。 この登は当時興行界の花形で春吉が首をつっこんでいた浪曲や相撲の興行にも力を入れます。「吉本興業」(現存する芸能プロダクション)から請われて、その用心棒を務めたことに端を発してその興行権を握るなど、多くの人気浪曲師の興行権を次々と手中に収めていくのです。 当時の興行界もまた、地方の興行主にヤクザの親分あがりが多かったことでわかるように、ヤクザとは切っても切れない業界でした。芸人や力士の人気に収益が大きく左右される実演興行も「水もの」で博奕的要素がつよく、地元の親分が用心棒を務めるだけにとどまらず、「手打ち」とよばれる興行の共同出資もよくみられました(現在の映画界でいう「製作委員会」に親分衆が大口出資するようなものでしょう)。 娯楽に飢えた地元庶民のために派手な興行を打つことは、親分の「男をあげる」格好の機会でもありました。登が非凡だったのは、劇場や勧進元の用心棒を糸口にして、芸能の興行権まで手中にしていったことです。西日本一帯に「山口組興行部」の名が知れ渡ることになっていくのです。 ですが、結果的にこの芸能興行が登の命を縮めることになります。浪曲師の映画出演をめぐり、山口県下関市のヤクザ組織と揉め事が起き、登は刺客に日本刀で斬りつけられます。奇跡的に一命を取り留めますが、2年後の1942年に41歳で死亡したと伝えられます。 時は第二次世界大戦に突入し、日本は戦時統制が敷かれた頃で、登の死とともに山口組もいったん空白期を迎えることになります。
3代目山口組・田岡一雄組長と美空ひばり
1946年、田岡一雄が3代目を襲名しました。不良外国人の制圧、あるいは主要事業である船内荷役業などで手腕を発揮した彼は、末端の日雇い労働者たちにとっては心強い存在でもありました。彼らの労働環境の改善に一肌脱いだからです。 田岡のいう「任侠」の役割が、底辺労働の近代化というかたちで社会的にも求められる時代があったのです。 それは芸能興行の世界でも発揮されます。浮草稼業のうえに露骨なピンハネに泣き寝入りを余儀なくされていた芸人たちに気前よくギャラを支払うことで、信頼を得ます。さらに、国民的歌手である美空ひばりの後見人となり、その興行権を握ったことで、京都以西では「田岡なしでは興行ができない」とまで言われる実力者に若くして台頭しました。 芸能人の扱いには定評のあった田岡は、親交を深めた相手とは愛人の住所まで知らされるほど深くつきあったとされます。猪野健治氏の著書(『山口組概論』)によると、田端義夫、川田晴久、伴淳三郎、清川虹子、山城新伍、里見浩太朗、淡島千景、村田英雄、三波春夫、フランク永井、松尾和子、江利チエミ、舟木一夫、五月みどり、坂本九……と、俳優、歌手、芸人を問わず、売れっ子芸能人の大半を興行で「世話」し、濃淡の違いはあるものの個人的にも交際を密にしていました。 なかでも、実の娘同然に寵愛した美空ひばりには、「後見人」を請われて「ひばりプロダクション」副社長に就任。1964年の小林旭との離婚会見ではひばりの親代わりとして同席し、記者の質問に答えたのは有名な話です。 映画界ではなんといってもトップの岡田茂社長との阿吽(あうん)の呼吸で知られた東映と太いパイプがあり、任侠映画全盛時代は言うに及ばず、1970年代に入って以降も、高倉健、菅原文太の二大スターをはじめ数多くの俳優と親交を持ちました。なかでも、勝新太郎とは昵懇(じっこん)の仲だったようです。 田岡が週刊誌に執筆した自伝が、1973年に刊行されベストセラーとなると、この自伝をもとに田岡の半生は映画化され、田岡役を大物俳優の高倉健が演じたこともあり、空前のヒットを記録しました。故・松田優作や役所広司といった名優が司6代目役を演じてヒットするようなものでしょう。