じつは「日本の良さ」が失われていた「文明開化」の「激しい反動」…崩れてしまった「和魂漢才」
日本文化はハイコンテキストである。 一見、わかりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……この国の〈深い魅力〉を解読する! 【写真】じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」 *本記事は松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。
「ジャパン・フィルター」が機能しなくなる
大和本草や国学のような国産物の開発、日本儒学の研究といった連打は、政治や思想や文化における「中国離れ」を引きおこします。日本はこのままいけるんではないか、もっと充実した国になれるんではないか。宝暦天明期や文化文政期には、そんな驕りさえ出てきます。 ところが、そこにおこったのがアヘン戦争(1840)です。イギリスが清を蹂躙した。幕府が唯一親交を温めてきたオランダ国王からの親書には、「次は日本がやられるかもしれない」という警告が書いてありました。これは「オランダ風説書」という文書に示されています。 実際にもロシアの戦艦が千島や対馬にやってきて、通商のための開港を求めます。幕府は外国船打払令などを連発して、これを追い払おうとするのですが、効き目がない。 そうこうするうちに、ついに「黒船」がやってきて(1853)、この対処に戸惑った幕府は解体を余儀なくされました。海外向け、外交上のジャパン・フィルターの持ち札がなかったのです。やむなく攘夷か開国かで国内は大騒動です。これで明治維新に突入することになったのです。 こんなふうになったのは、黒船に代表される西洋の近代科学の力に圧倒されたということもあるでしょうし、同時にその西洋の力によって、かつての日本にとってのグローバルスタンダードであった清国がなすすべもなく蹂躙されたアヘン戦争という事件を間近に見たせいでもあったでしょうが、いずれにしてもそこで、それまで日本が保持していた何かが損なわれたのです。 これまでの日本であれば、グローバルスタンダードを独特のジャパン・フィルターを通して導入していたはずのものが、西洋の政体と思想と文物をダイレクトに入れることにしたとたん、つまり「苗代」をつくらずに、フィルターをかけることなく取り込もうとしてしまったとたん、日本は「欧米化」に突入することになったのです。 これを当時は「文明開化」とは言ってみましたが、でもそこからは、大変です。列強諸国のほうが、裁判権とか通商権などに関してフィルターをかけようとしたのです。 西洋の文化を受け入れるに際して、あまりに極端なオープンマインド、オープンシステムで応じたために、中国の文物を受け入れるに際しては機能した「和漢の境をまたぐ」という仕掛けがはたらかなくなりました。 こうして「和魂漢才」はくずれ、できれば「和魂洋才」を律したかったのですが、そこもどちらかといえば「洋魂米才」があっというまに広がっていきました。このことは明治の大学が「お雇い外国人」にそのスタートを頼んだことにもあらわれています。 仮名の発明から徳川時代の国学まで続いた「中国離れ」は「列強含み」に変わったのです。それではいかんと奮起して日清戦争と日露戦争に勝利できたあたりから、日本主義やアジア主義を唱える新たなムーブメントもおこりますが、その動向はまことに微妙なもの、あるいは過剰なものとなっていきました。 * さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。
松岡 正剛