オリックスの若き守護神として大活躍も低迷、トレード先の中日で復活した剛腕・平井正史【逆転野球人生】
中日で果たした復活
このとき、中日の監督は山田久志だった。平井が鮮烈デビューを飾ったときのオリックス投手コーチが直々に交換相手に平井を指名したのである。当初は中継ぎ起用も、ローテーション投手に故障者が出たこともあり先発マウンドへ。リリーフで登板間隔が詰まるより、先発の方がヒジにも負担が少ないのではという指揮官の気遣いもあった。オリックスで十代の平井を先発で育て切れなかった山田の後悔は、中日で28歳の平井を先発として再生させるという新たな目標に切り替わっていたのだ。新天地では同学年の川上憲伸から刺激を受け、先輩の山本昌の先発調整法を参考にした。チーム状況は決して良くはなかったが、山田監督の休養が発表された9月9日の広島戦に先発した平井は、意地のプロ初完封勝利を挙げる。 「解任劇があったからといって、落ち込んでもいられないし、山田さんが辞めたときに自分が打たれて、「やっぱり、コイツはダメだ」とか言われたら、山田監督にも申し訳ないですから」(『週刊ベースボール』2003年10月13日号)
オリックス時代に「(先発は)スタミナ配分とか考えて手加減したけど、やっぱり僕には向いていない」と自嘲気味に語っていた男は、中日移籍1年目に40試合(20先発)で12勝6敗、防御率3.06と復活を遂げるのである。プロ10年目で自身初の規定投球回にも到達して、カムバック賞に選出された。そして翌04年は、先発とリリーバーを兼業。05年からは再びリリーフ専任して落合中日のブルペンを支える一員となった。なお、06年の57登板は、あの栄光の95年の53試合を超える自己最多登板数である。 山田久志はオリックス時代の平井について、こんな言葉を残している。「あれだけの素材を持った投手を大エースに育てられなかった。これが、今でも大きな悔いとして残っているんですよ」(『webSportiva』2014年12月11日)。通算284勝を挙げた史上最高のサブマリン山田をして、ここまで言わしめる規格外の逸材。プロ入り当初の平井の投げるストレートにはそれだけの魅力があった。仮にデビューから先発として育てていたら、伊良部秀輝や松坂大輔と投げあう90年代のパ・リーグを代表する大エースになり、イチローと同時期にメジャー・リーグの舞台に立っていたことだろう。 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない──。トレード先の中日で10年間もプレーして、通算378試合に投げた。これはオリックス在籍時(1994~2002年、2013~14年)の通算191登板を大きく上回っている。あの頃のような剛速球が投げられなくなっても、投手・平井正史は決して終わっていなかったのである。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール