オリックスの若き守護神として大活躍も低迷、トレード先の中日で復活した剛腕・平井正史【逆転野球人生】
21歳のイチローと20歳の平井は新たなチームの顔だった。後半戦も7月16日から16試合連続無失点。リーグ新の42セーブポイントを達成するも、勝てば本拠地で胴上げの17日ロッテ戦で5失点の乱調。51試合目で初めて途中降板となり、救援全試合が交代完了という記録が途切れた。それでも、19日の西武戦では胴上げ投手に。上体の力に頼った投球フォームは体への負担も大きく、シーズン終盤は右ヒジ痛も抱えていた。ヤクルトとの日本シリーズでは2戦連続で被本塁打とすでに体は限界だったが、53試合で15勝5敗27セーブ、防御率2.32という堂々たる成績で最優秀救援投手、最高勝率、新人王と多くのタイトルを獲得。捕手の中嶋聡(現オリックス監督)と最優秀バッテリー賞にも選ばれた。オリックス82勝の51%に貢献する42SPの働きでMVP投票では、本塁打王以外の打撃タイトルを独占したイチローに次いで第2位。契約更改では年俸660万円から一気に6000万円へと大幅アップを勝ち取る。先輩投手・牧野塁の愛車フェアレディZの後部座席に巨体を折り曲げるように乗り込み、寮の青濤館からグリーンスタジアム神戸入りするのがお馴染みの光景だったが、アウトドア好きの平井は念願のパジェロを購入した。
昔のような投球ができずに……
96年は仰木監督が「今年は平井を先発に持っていきたいという夢を持っているんですよ。実現したいと思いますね」と初夢を語ったが、前年の大車輪の活躍の代償は大きく、キャンプから右ヒジ違和感や右太ももの張りで大きく出遅れる。後半にチームに貢献するも、リリーフのみの34試合の登板で、5勝3敗6セーブ、防御率2.50と前年より大きく成績を落としてしまう。 「何が悪いというのじゃなく、一言で言えば目に見えない疲れがあったということだと思います。2年目といっても、プロというそれまで知らない世界で突然53試合も投げて体も気持ちも疲れていたはず。なのに今のようなしっかりしたケアもせず、若いから大丈夫だろう、と思っていたら大丈夫じゃなかった」(『週刊ベースボール』2014年11月24日号) チームが初の日本一になった96年の日本シリーズ優勝の翌日、仰木監督はあらためて「平井は将来、投手陣の柱になるピッチャー。来季は先発で使おうと思っている」と明言。オフにはハワイ・マウイ島で2歳上の彼女と結婚式を挙げた。97年4月24日の西武戦で待望の先発初勝利を挙げたが、好調時は打者を圧倒したストレートで押し込めなくなり痛打されることも増えた。結局、シーズンを通して2勝1敗と先発転向は失敗に終わる。閉幕を待たず10月には首脳陣の配慮で、友好球団のシアトル・マリナーズのファーム組織にリフレッシュも兼ねた短期野球留学へ。 「先発に回って長いイニングを投げるということで、最初はコントロール重視で行ったんです。それで通用するときは良かったんですけど、ちょっと力を入れて投げんとアカンなと思う場面が来た。するとどうも抑えのときみたいにいかない。結局、リズムを崩してしまった」(『週刊ベースボール』97年12月1日号) このアリゾナで、短いイニングを全力で投げるうちに以前の感覚を取り戻す。ヒジを痛めて以降は腕が下がっていた投球フォームを見直し、98年には再びリリーフ業へ。最速151キロと球威が戻り、36試合で6勝3敗1セーブ、防御率2.48と復調したかに見えた。だが、平井は翌99年から4シーズン未勝利という出口の見えないスランプに陥ってしまう。150キロ近い表示が出ても、昔のように球が行ってないのが自分でも分かった。気持ちが落ち込んで、一軍に呼ばれても単にシーズンをこなしているだけ……という最悪の状態だ。大器・平井をなんとかしようとする周囲からの過剰のアドバイスも本人を苦しめる。2001年8月には右ヒジ軟骨の除去手術へ。プロ6年目から9年目の投手として最も脂の乗った時期を不振と故障で棒に振った。当然、もう平井は終わったという声すら聞こえてくる。そして、長いリハビリ期間を経て、ようやく思い切り腕を振れる状態になった2003年1月に電撃トレードが決まるのだ。中日ドラゴンズの元ホームラン王・山崎武司との1対1の交換トレードである。