BC級戦犯 出所したはずの父は妻子の元へ帰ってこなかった
戦勝国が敗戦国を裁く戦犯裁判。現場の下士官や兵らも罪に問われたBC級戦犯。31歳で重労働15年を宣告された後、スガモプリズンを出所しても妻子の元へ帰らなかった男性がいた。獄中で彼の心境にどんな変化があったのかー。 【写真で見る】妻子の元へ帰らなかった男性 スガモプリズンを出所したはずなのに
軍人が裁いた「横浜裁判」
横浜地方裁判所。1945年の敗戦後、アメリカ軍によって接収され、軍事法廷が開かれた。この法廷で裁かれたのは、BC級戦犯。墜落した米軍機の搭乗員など、捕虜に対する殺害や虐待行為が戦争犯罪に問われた。 日本大学生産工学部の高澤弘明准教授。アメリカの国立公文書館に残されている戦犯裁判の写真を調査している。 高澤弘明准教授「そもそも、横浜法廷っていうのは、我々が今イメージしている裁判システムとは違いまして、あくまでも軍事法廷なんですよね。だから公平性ということを一応うたっていますけれども、その公平性のレベルっていうのが、軍事法廷は皆さん、軍人さんですので、疑わしいところもあったかもしれません」
「無差別爆撃は国際法違反」裁判で訴えた岡田中将
戦勝国が敗戦国を裁いた戦犯裁判。そもそも、日本を無差別爆撃していた米軍機の搭乗員は戦争犯罪には問われないのか。横浜裁判でそれを争った人がいる。岡田資中将。名古屋市に置かれた東海軍の司令官だ。 東海軍は、1945年6月から7月にかけて、撃墜されたB29爆撃機の搭乗員を処刑した。名古屋市から少し離れた瀬戸市赤津町で11人。小幡ヶ原射撃場で11人。名古屋城にあった司令部で16人。合わせて38人が処刑された。 岡田中将は、「米軍機の無差別爆撃は国際法違反であり、処刑は正当」と主張する一方で、部下をかばい、ひとりだけが絞首刑となった。
岡田中将を支えた若き参謀
保田直文少佐の長女、村田佳代子さん。1946年8月からスガモプリズンに収監されていた父のもとへ、佳代子さんは母と一緒に面会に通った。面会した時のことを今もよく憶えているという。 村田佳代子さん(80)「もうそりゃ克明にありますよ。忘れもしないね、この洋服を着てね、父の面会に行ってるの。この洋服なの。だからここから大体2ヶ月に一度ずつ父のところに私だけ行ったんだなって。思い出しましたけどね。」 佳代子さんは3歳くらいから、5年ほど面会に通ったことになる。成人して洋画家になった佳代子さんは、父との思い出を絵に描いた。 村田佳代子さん「ここが面会室なんですけど、金網に指を突っ込んでいくと、うまくいくと父の手と合うんですね、そこで手でしゃべってたって感じで。父は割と声が低くてね、物静かなの。あんまり慌てたり、早口になったりとかそういうことがなくて、淡々と話す人だった」
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