「桜の花が舞い落ちる木の下で死にたい」――歌人西行が「願いどおりの臨終」を迎えるまで
この事実は、当時の人々に大きな衝撃を与え、深い感動を呼び起こした。俊成・定家・慈円等の歌人たちは、それぞれこの歌を踏まえて、西行の死を哀悼する歌を詠んでいる。 俊成は西行が亡くなった時、この歌を思い出し、しみじみとした気持ちで 「願ひおきし花の下にて終りけり 蓮(はちす)の上もたがはざるらむ」(日頃願っていた桜の花の下で、臨終を遂げられました。この上は、極楽往生は疑いないでありましょう) と詠んだ。西行が日頃の願い通りの死を遂げたことを讃嘆、極楽往生は疑いないであろうとする。 定家は、西行が臨終に際して取り乱さず、立派に死んでいったと聞いて、その死後に三位中将公衡(藤原公衡。定家の従兄弟)に次のような歌を送っている。 「望月の頃はたがはぬ空なれど 消えけむ雲の行方悲しな」(かねて西行上人が願っておられたのに違わぬ望月の空ではありますが、消えてしまった雲――上人――の行方が、ひたすら悲しく思われます) 定家の歌にしては珍しく、悲傷の思いを率直に詠んでいる。 そして西行が日頃の願い通りの死を遂げたことが誘因となって、西行に関する事績は、以後急速に説話化されることになり、やがて『西行物語』や『撰集抄』を生むことになる。 この「願はくは」の歌は、西行の志向した世界とその達成を象徴的に語るものであり、後世の西行伝説を生む直接の契機となったという意味で、記念碑的な一首であるといえよう。 ※本記事は、寺澤行忠『西行 歌と旅と人生』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
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