ザ・マッカランのウイスキーを片手に聴く「スコットランド交響曲」【指揮者・野津如弘の音楽と美酒のつれづれノート】
時の重なりが叶えた深みが際立つ、シンフォニーとウィスキー
僕もメンデルスゾーンと同じ年代、確か22歳の頃だったか、友人とヨーロッパを旅行した際にスコットランドを訪れた。エディンバラからインヴァネスまでの車窓に広がる光景はまさにメンデルスゾーンが200年近く前に書いた通り、荒涼としていた。ゴツゴツと起伏に富んだ地形、木々はまばらで荒野が広がり、夏だというのに寒かった。天気も変わりやすく、晴れていたかと思えば、急に雨が降り出し、雲の合間からうっすらとまた陽が射す。帰りの夜行列車に乗る前にステーション・ホテルのバーでウイスキーを飲んだことを覚えているが、銘柄はなんであっただろう。当時、唯一名前を知っていた銘酒ザ・マッカランだったかもしれない。 メンデルスゾーンはエディンバラ滞在中の7月30日にホーリールード宮殿を訪れ、交響曲第3番《スコットランド》の着想を得た。「今日、たそがれどき、メアリー女王が暮らし、また愛していた、ホーリールード宮殿を訪ねました。(中略)隣の礼拝堂にはもう屋根もありません。草やきづたが生い茂っています。メアリー・ステュアートがスコットランド女王に即位したのはこの壊れた教会ででした。すべてが壊れていて、廃墟とその上の青い空だけしか見えません。私は《スコットランド交響曲》の冒頭の部分を見た気がしました」 その時、スケッチブック(メンデルスゾーンは絵も得意であった)に書かれた16小節の楽句は、しかしすぐに実を結ぶことなく、10年以上も寝かされることになる。翌年からのイタリア旅行時も手をつけようとしたのだが、「やむをえず、《スコットランド交響曲》を中断せざるをえなくなりました。これをしあげるためには、霧につつまれたあの地へ戻らなければならないでしょう」と家族への手紙に書いている。 完成したのは、およそ13年もの月日を経た1842年のことだ。当時記した楽句は、ほぼそのままの形で第1楽章の序奏に現れ、結尾部で回想される。青年メンデルスゾーンは、デュッセルドルフ市の音楽監督を経て、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団第5代指揮者、プロイセン宮廷礼拝堂楽長を務める若き巨匠となっていた。その間、ロンドンを訪れること5回。折に触れて楽想をあたためていたに違いない。オーボエとヴィオラで奏でられる旋律は、イ短調で仄暗く哀愁を帯びた雰囲気を漂わせており、霧の中からスコットランドの風景が浮かびあがってくるようだ。 熟成を経て完成したこのシンフォニーには、やはり同じく熟成して完成するスコットランドの地酒ウイスキーがふさわしいだろう。18世紀初めにはすでにウイスキー造りは行われていたというが、ザ・マッカランが「蒸留ライセンス」を取得したのは1824年のこと。メンデルスゾーンがスコットランドを訪れる5年前だ。はたして女中さんが持ってきて、メンデルスゾーンたちが飲んだウイスキーは何であったか、思い巡らすのもまた楽しい。