核廃絶への思いを新たに ノーベル平和賞受賞 日本被団協の代表理事 木村緋紗子さん
khb東日本放送
10日にノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会、日本被団協の代表理事の1人で宮城県を中心に核兵器廃絶を訴え続けてきた木村緋紗子さんは、授賞式に出席し核兵器廃絶への思いを新たにしました。 【写真】オスロを散策
木村緋紗子さん「世界にやはり発信したい。核兵器廃絶と戦争をやめましょうと私は伝えてきます」 日本被団協の代表理事で仙台市で暮らす木村緋紗子さん(87)は7日、宮城県の支援者に見送られながらノーベル平和賞の授賞式が行われるノルウェーに向け出発しました。 1945年8月6日に広島に投下された原子爆弾は、強烈な爆風と熱線が爆心地の周囲約2キロ以内の建物をほとんど焼き尽くしました。当時8歳だった木村さんは、爆心地から約1.6キロの場所で被爆しました。 医師だった父親の貞臣さんや祖父の孝造さんなど8人もの親族を原爆で失いました。木村さんが今も頭から離れない事は、大やけどした祖父を看病した時の記憶です。 木村緋紗子さん「6日からずーっとウジ虫取りしてましたね。人間の体ぐらい焼けて臭いものは無いですよ。おじいちゃん本当にもう嫌だから死んでって言っちゃいましたもんね。何てことを言っちゃっんだろうなと」 この時の後悔の念から、木村さんは約30年にわたり各地で自らの被爆体験を語ってきました。 アメリカなど海外にも何度も足を運び、核兵器による被害の悲惨さを伝え核廃絶を訴えてきました。 木村緋紗子さん「核兵器と戦争の無い平和な世界を目指す運動をいたしましょう」 木村さんたち日本被団協長年にわたる活動が認められ、ノーベル平和賞の受賞につながりました。 代表団と共に、表彰式が行われるノルウェーの首都オスロに到着した木村さんは授賞式前日、代表団のメンバーと共にオスロを散策しました。 木村緋紗子さん「レンガ造りってやはりいいねぇ」 街にはノーベル平和賞の旗があちらこちらに掲げられ、シンボルの観覧車には日本被団協のメンバーに敬意を示した折り鶴のイラストもありました。 授賞式を前に木村さんは「被爆の実相を広く世界に伝えたい」と決意を語りました。 木村緋紗子さん「私の父親は、無念でならぬという言葉を残しながらあの世に去っていったんです。そういう人たちの思いを世界の人たちに発信していける場所だな、それがスタートだなって」 10日、オスロ市庁舎で行われたノーベル平和賞の授賞式に出席した木村さんは、日本被団協の代表委員3人がメダルと賞状を受け取る様子を見守りました。 スピーチに立ったのは、長崎で被爆し宮城県で暮らした経験もある田中熙巳さん(92)です。 日本被団協代表委員田中熙巳さん「核兵器は一発たりとも持ってはいけないということが、原爆被爆者の心からの願いであります。人類が核兵器で自滅することの無いよう、そして核兵器も戦争も無い世界の人間社会を求めて、共に頑張りましょう」 木村緋紗子さん「式は良かったですよ。印象に残ったのはやはり田中さんが言った言葉ですよね」 授賞式を原爆で犠牲になった人たちの思いを世界に発信する始まりの場所にしたいと話していた木村さんは、先人たちの魂を連れていくことができたと振り返りました。 木村緋紗子さん「今も戦争やっていますが、戦争をしないようにみんな世界の人々が仲良くなっていけるようにこれからも頑張りたいと思います」 ノルウェーから仙台市に戻った木村さんを、一緒に活動をしてきた仲間たちが出迎えました。 木村緋紗子さん「ただいま帰りました。ありがとうございました」 木村さんは、オスロで現地の人たちに行った語り部の活動を振り返った上で、生きている間は核兵器の廃絶と戦争の根絶を訴え続けたいと話しました。 木村緋紗子さん「語り部をして、涙を流しながら私の声を聞いてくれた。核兵器も戦争も無い世の中で未来を作っていきたい」
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