1996年夏の甲子園決勝「奇跡のバックホーム」から続く熊本工業と松山商業の交流 元指揮官が振り返る当時とその後
松山商業野球部の第20代監督を務めた澤田は、昭和、平成、令和を生きた指導者だ。高校時代は名門校の松山商業で鍛えられ、大学では黄金時代の駒澤大学で揉まれた。コーチとして母校に戻ってからは"松山商業の野球"を後進に伝える使命を負った。 厳しくなければ、野球ではない。 ヘラヘラ笑いながら練習してうまくなれるか! 「苦しさの向こうに勝利がある」と信じられた時代に選手として猛練習に耐え、指導者になってからは自分が経験したことを選手に強いた。時に罵声を浴びせながら、時に鉄拳をふるいながら。 厳しさでは熊本工業も負けてはいなかった。選手たちを罵倒しながら、倒れるまでノックを打ち込む"鬼"に徹した澤田に負けないほどの情熱を持った指導者がいたから、あれだけの名勝負が生まれたのだ。 【優勝と準優勝を分けたもの】 1996年の夏の甲子園決勝で生まれた"奇跡のバックホーム"。3対3で迎えた10回裏、熊本工業の攻撃。1アウト満塁でライトに大きなフライが飛んだが、直前で代わったライト・矢野勝嗣が矢のようなバックホームで三塁ランナーの星子崇を刺し、サヨナラ負けを阻止。試合は11回表に松山商業が3点を入れ、6対3で勝利した。 甲子園では現在でも、各試合の5回裏が終わったあとのクーリングタイム中に、名シーンのひとつとしてビジョンで流されている。 澤田は言う。 「去年も矢野のバックホームのシーンがビジョンに流されて、慶應義塾のアルプススタンドから大歓声が上がったと聞きました。いまだにあのシーンを覚えてくれる人がいること、初めて見た人でも『すごい』と思えるプレーができたことはうれしいね」 "奇跡のバックホーム"で指揮官を喜ばせたのは、絶体絶命のピンチを控え選手が救った、ということだけではない。
「あのシーンを三塁側のスタンドから撮影した人がおる。それは、ライトの矢野、中継役のセカンドの吉見宏明、ファーストの今井康剛、捕球したキャッチャーの石丸裕次郎、そのバックアップに入ったピッチャーの渡部真一郎が一直線に並んでいるのがわかるものでした。サヨナラ負けのピンチの場面で、あんなフライを打たれたらピッチャーはがっくりしてマウンドで膝をついてもおかしくない。でも、渡部はすぐにバックアップに走っていった」 大観衆のほとんどが「終わった!」と思った打球だったが、松山商業の選手たちは誰もあきらめていなかった。 「練習どおりに一直線。全員が本能で動けるまで練習を繰り返した証しやね。最後まで、みんなが松山商業の野球をやり抜いたことがうれしかった。あれができたから日本一になれたんだと思います。松山商業の伝統を物語っている」 【勝者と敗者に分かれたあとも人生は続く】 もうひとつ、澤田には忘れられないシーンがある。 「10回裏のピンチの場面で内野手がマウンドに集まった時、サードの星加逸人がピッチャーの渡部の頬をつねった。全国の人たちが注目する場面で平気でああいうことができるのが星加のすごいところ。渡部との間に信頼関係があったんやろうね」 9回裏、1点リードの場面で同点ホームランを打たれ、2年生の新田浩貴が崩れ落ちるのを見て、マウンドで抱え上げたのは星加とキャプテンの今井だった。 「最後の最後に、選手たちのつながりが見えた試合でした」 この話には続きがある。 「熊本工業の選手たちとはその後も話す機会があるんやけど、あのバックホームで三塁ランナーの星子くんがアウトになるのを、ホームベース近くで見ていた四番打者の西本洋介くんはこう言っていました。 『僕はあの場面を悔やんでいるんです。なぜ星子を抱き上げてやれんかったんやろう。そこが優勝と準優勝の違いだったと思います』と」 それを聞いた澤田は西本にこう言ったという。 「おまえはたいしたもんじゃのう。それに気づいて、本当にえらい」 あの日、日本一を目指して戦った男たちは勝者と敗者とに分かれた。しかし、人生は続いていく。