掛布雅之が「バックスクリーン3連発」を振り返る 阪神を日本一に導いた「走塁」と「犠打」
【掛布氏が吉田監督から得たもの】 ――ベテランの弘田澄男さんをシーズン前半で主に2番に起用し、後半では北村照文さん、吉竹春樹さんらと併用していました。 掛布 ベテランの弘田さんを休ませながら、若い吉竹らをうまく起用していました。日本シリーズなど、ここぞという勝負どころでは弘田さんを起用していましたし(日本シリーズは全6戦で先発出場)、ベンチやファームにいる選手も含めて全体の戦力をコントロールしていました。 長いシーズンをどういうリズムで戦っていくかは、監督として一番難しいところだと思うのですが、吉田監督はその部分が長けていましたね。 ――吉田監督との出会いで得たものとは? 掛布 やはり、「守る野球」の大切さです。阪神に入団して1年目(1974年)は一軍守備コーチだった安藤統男さんに猛ノックで徹底的にしごかれ、吉田監督が阪神で1回目の監督に就任された時(1975年)に、もう1回守りをしごかれました。 野球は守備がよければ、守備固めの選手と交代させられることもなく、試合の最後まで出られます。僕のレギュラーの定義は、「27個目のアウトを取る時にグラウンドにいる選手」。あとひとつアウトを取れば勝てるという27個目のアウトって、守る側からすれば一番緊張するアウトですよね。そのアウトを取る瞬間、"サードのポジションに立っている掛布"を作ってくれたのが吉田監督だと思います。 【プロフィール】掛布雅之(かけふ・まさゆき) 1955年5月9日、千葉県生まれ。習志野高校を卒業後、1974年にドラフト6位で阪神に入団。本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回、オールスターゲーム10年連続出場などの成績を残した。球団初の日本一になった1985年は不動の四番打者として活躍。1988年に現役を引退した後は、阪神のGM付育成&打撃コーディネーター、2軍監督、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー、HANSHIN LEGEND TELLERなどを歴任。野球解説者や評論家、YouTubeなど活躍の場を広げている。
浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo