野球殿堂入りの名将ハーゾグ氏死去 1982年カージナルスで世界一
カージナルスが16日(日本時間17日)、名監督として野球殿堂入りしているホワイティ・ハーゾグ氏が死去したと発表した。92歳だった。 ハーゾグ氏は高校卒業後にヤンキースと契約し、マイナーでプレーしていたが1956年セネタースに移籍してメジャー昇格。1年目に117試合に出場もその後はアスレチックス、オリオールズ、タイガースでプレーし1963年限りでメジャーの舞台から消えた。通算成績は634試合で打率2割5分7厘、24本塁打だった。 しかしアスレチックスのスカウトやメッツのコーチを経て1973年レンジャーズの新監督として抜擢されたが47勝91敗で解雇された。その後エンゼルスのコーチを経て1975年7月、ロイヤルズの後任監督に就任するとチームを41勝25敗の成績に導いた。 これで自信をつけたチームは強打の三塁手ジョージ・ブレットらを中心に1976年から1978年にかけア・リーグ西地区3連覇。リーグ優勝決定シリーズでは3年連続ヤンキースに敗れたが、その激闘は今でも球史に残る戦いだった。 4連覇を逃した1979年にハーゾグ氏はカージナルスに監督兼GMに就任。「ホワイティ・ボール」と言われるパワーを犠牲にして、スピード、守備、コンタクトヒッティングを中心としたチームの再建に着手。 ウィリー・マギー、ビンス・コールマン、オジー・スミスのスピードスター3人を中心にして、1982年に92勝を挙げてナ・リーグ東地区優勝を決め、ワールドシリーズではブルワーズと対戦し、3勝2敗から本拠に戻って逆転し15年ぶりのワールドチャンピオンに導いた。その後1985年は3勝1敗から、1987年は3勝2敗から逆転を許し世界一を逃したが、当時のカージナルス野球がメジャーを席巻していたのは間違いない。 1990年途中で退任するまで通算1281勝1125敗。2010年に野球殿堂入りを果たした。 コミッショナーのロブ・マンフレッド氏は「ホワイティ・ハーゾグは同世代で最も優れた監督の一人であり、『I―70』(ミズーリ州の高速道路でロイヤルズ、カージナルスはともにミズーリ州)シリーズの両方で一貫して勝者であった。彼はカージナルスでは監督とGMとして、ロイヤルズでは監督として、ニューヨーク・メッツでは選手育成において多大な影響を与えた。カージナルスは、世界中の野球ファンの共感を呼んだスピードとディフェンスのアイデンティティのチームだった」。
報知新聞社