被爆した医師を天皇が批判 背景に占領下の検閲、原爆報道や出版制限
今年のノーベル平和賞を受賞する日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成される前、「空白の10年」と呼ばれる時代に、原爆の悲惨さを訴え続けた医師がいた。しかし、昭和天皇は内々の席で医師に対して「宣伝屋」と批判的な発言をしていたことが、側近の記録で明らかになった。その背景には、連合国軍総司令部(GHQ)による検閲で被爆者が自由に発信できなかった事情もあった。 【写真】1950年6月に国家表彰された際に贈られた銀盃(ぎんぱい)を病床で受け取る永井隆博士と子ども2人=長崎市の自宅「如己堂(にょこどう)」、長崎市永井隆記念館提供 医師の永井隆(1951年、43歳で死去)は、45年8月9日、爆心地から約700メートルにある長崎市の長崎医科大(現長崎大学医学部)で被爆した。妻を亡くし、自らも重傷を負いながら被爆者の治療に尽くした。 病に倒れた後は病床で「この子を残して」など17冊を出版。代表作「長崎の鐘」は49年1月に出版され、半年ほどで9万部以上を売り上げる当時のベストセラーに。映画や歌謡曲もつくられ、ヒットした。 天皇が永井に会ったのは49年5月27日。戦後に全国を訪れた「戦後巡幸」の一環で長崎を訪問した際のことだった。当時の朝日新聞記事などによると、永井はベッドに横たわったまま15歳の長男、9歳の長女とともに面会。「どうです病気は」と声をかけられ、永井が「おかげさまで元気でおります」と答えた。天皇は「どうか早く回復することを祈っています。著書は読みました」と語り、永井は「手の動く限り書き続けます」と応じた。永井は同年2月、「長崎の鐘」を天皇と明仁皇太子に献上していた。 永井は著書「いとし子よ」で「何というありがたいお言葉だろう。(略)あまりにももったいない次第であった」と天皇と面会した感激を記している。 ところが天皇は、あまり良い感情を抱いていなかった様子が、側近の記録からうかがえる。 初代宮内庁長官を務めた田島道治が在任中の49~53年に記した「昭和天皇拝謁(はいえつ)記」(全7巻)が2021~23年に順次刊行され、戦後間もない時期に天皇が側近と交わした会話の詳細が初めて明らかになった。 「拝謁記」によると1950年4月19日の天皇の発言にはこうある。 湯川博士と共に、長崎の永井隆をも表彰するのが銀盃(ぎんぱい)で出て来た。私はこんな宣伝屋はいやだが、そして湯川博士にもわるいと思ふが、裁可せぬ訳には行かぬと思ふが 日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹とともに永井への国家表彰が決まり、政府から裁可を求められた天皇が田島に対し、内々にもらした言葉だ。田島は「憲法七条の栄典授与は内閣の助言と承認によるもの故(ゆえ)(略)ご裁可願ふより外(ほか)なく」と裁可を促した。 侍従の入江相政(いりえすけまさ)は、天皇と永井の面会について「(天皇が)永井隆博士にお会ひになる。二人の子供を御引合せしたりして少し宣伝が過ぎるやうだ」と日記に書いていた。 永井が被爆者のなかでも目立った存在だったのには、理由があった。終戦に伴い45~52年に日本を占領したGHQは、プレスコード(報道統制)を発令して秘密裏に検閲を行った。米国など連合国への批判、とくに原爆に関する報道や出版を厳しく制限していた。
朝日新聞社