「そもそも土地なんかだれのものでもないはずだ」 藤子・F・不二雄が示した「土地」へのアイロニー
NHK BSでスタートした「藤子・F・不二雄SF短編ドラマ」のシーズン2も、4回目を迎えた。本日4月28日に放送される第4夜は『3万3千平米』(初出:『ビッグコミック』1975年8月10日号)。原作は、マイホームを熱望する中年サラリーマンが、「土地」をめぐるある奇妙なできごとに巻き込まれる顛末を描いた作品である。 「そもそも土地なんかだれのものでもないはずだ。宇宙に生命が発生するはるか以前に……すでに土地は存在していたのだ」 まずは作中のもっとも印象的な言葉の書き出しからはじめてみた。この言葉、あなたはどう思うだろうか。筆者は、基本的に異論はない。 しかし、「異論はない」という感触には、あくまでも「原理的には」という付記がつく。現代社会においては、その「だれのものでもない」土地が切り売りされ、それぞれの土地の所有権がどこにあるのか、明確なことが前提で街や都市、ひいては国が発展していくのが基本である以上は、この言葉はただの「題目」にすぎず、実践的な響きをともなったものではないだろう。 じっさいに、本作の主人公である寺主(じぬし)も、心のどこかでは「土地」に踊らされることへの疑問はもちながらも、広大な土地を持つことを渇望する人物である。勤続30年のサラリーマンである彼は、マイホームを建てられるか否かという岐路に立たされている。かねてより、不動産業者で幼なじみの友人・安田から「まちがいなく掘り出しもん」という土地を紹介されており、それを購入するか否かで悩んでいるのだ。その土地は24坪で、都心からも少し離れているのがネックといえばネックである(ちなみに、現在の国土交通省の住生活基本計画では、豊かな住生活の前提となる誘導居住面積水準の広さを、都市の郊外および都市部以外の一般地域における2人以上の世帯の場合は25㎡×世帯人数+25㎡と定めている。3人家族の寺主家の場合は100㎡、つまり30坪が必要な計算となる)。とはいえ、安田は寺主の懐事情を計算に入れたうえでこの土地を紹介しているので、第三者的に見れば、けっして悪い物件ではないようだ。 しかし、寺主はなかなか首を縦にふらない。なぜか。冒頭、彼は夢のなかで大豪邸の主になっており、「ぼくの一生のユメだったもんね。広い土地広い家……」と、家まで送ってきたタクシーの運転手に感慨深げに語る。いっぽうで、現実にわがものになろうとしている土地については、「あたためてきたユメの結末が24坪とはね……」などとぼやきがとまらない。寺主は、人が驚嘆するくらいの広さの家や土地を持つことに執着を持ち、かつ家や土地は、自分の器をそのまま反映したものだと考えているようだ。 そんな寺主の自宅に(むろん貸家である)、燕尾服にシルクハットという、マジシャンのような奇妙ななりをした男があらわれる。訪問の趣旨としては、「あなたの持つ3万3千平方メートルの土地を売ってほしい」ということ。しかし、そもそもそんな土地を持った記憶のない寺主はとまどうばかりで、男のことを「おかしい奴」と結論づける。しかし、その後も男は、今度はほほに傷をつけてのやくざ風の身なりをして寺主の前にあらわれ、土地を売ってくれとせがみ続ける。とはいえ、土地に覚えのない寺主には、受け流す以外にできようがない。 そうするうちにいよいよ、安田への返事の期限が近づこうとしていた。寺主はついに、24坪の土地を買うことを決意したが、その前にはある「落とし穴」が待ち構えており……。 本作で印象深いのは、土地をめぐる「ずれ」である。広大な家と土地を持つことへのロマンを捨てきれない寺主に対し、どちらかといえば現実思考で、多少狭くても自分たちの土地を持つことを主張する妻。また息子・一郎はそもそも自分たちの土地や家を持つことにこだわりを見せず、「借家でいいからもっと広いとこへ引っこそうよ」と口にする。 上述した「ずれ」は価値観という意味合いでの「ずれ」だが、認識という意味合いでの「ずれ」もある。改めて説明するまでもないかもしれないが、寺主の土地を渇望する奇妙ななりの男と、そもそも人に売れるような土地の存在を認識していない寺主とのあいだにある「ずれ」である。この二者間の「ずれ」を象徴する伏線としては、土地の広さを言い表すうえでの単位の違いも機能する。寺主をはじめ、主だった人物はみな単位としては「坪」を使うが、唯一、奇妙ななりをした男だけは「平方メートル」という単位を使う。基本的に、この男と寺主の会話はかみ合わないままだが、そのかみ合わなさは単位の違いによっても端的に表されるのである。こうした細部の構築に、藤子・F・不二雄のテクニシャンぶりを見る。 ここで冒頭の言葉に戻る。「そもそも土地なんかだれのものでもないはずだ」。では、この真理に則るかたちで、人間は生きることができるのか。少なくとも藤子・F・不二雄は、土地を個人、あるいは組織や国家が独占するような社会とは離れた、オルタナティブな形態をもった未来への希望を提示しているのか。結論からいえば、否である。 藤子・F・不二雄の作品のなかには、「土地」に着目したものも少なくない。たとえば『ドラえもん』のなかでも、家賃の高騰や遊び場所の不足という事態に直面したのび太やドラえもんが、さまざまな策を講じようとするエピソードは見受けられる。それは新しく島を作ろうとしたり(『無人島の作り方』)、日本の国土を広げようとしたり(『ひろびろ日本』)、周囲の土地を少しずつちょろまかして野比家のものにしようとしたり(『チリつもらせ機』で幸せいっぱい?)などだが、いずれも土地の国有化や環境の問題、もしくは固定資産税の要求などでうまくいかない。最後には「土地だけは作れないなあ」「せまい家の中でさわぐな」といったセリフがだめ押しで登場し、読者は夢から、シビアな現実に引き戻されることとなる。 また、「そもそも土地なんかだれのものでもないはずだ」は、藤子作品のなかではじめてあらわれる言葉ではない。もちろん一字一句同じではないにせよ、その淵源は『オバケのQ太郎』のエピソード『百坪一万円』(1966年発表)にさかのぼることができる。相次ぐ家賃の上昇に辟易したQ太郎の居候先・大原家は、マイホームを求めてさまざまや家や土地をまわるが、安かろう悪かろうの物件ばかりを紹介するインチキ不動産屋に振り回されて疲弊する。そのいっぽうで、ちゃんとした土地となると値段的には手が出せず、「自分の家なんて、当分おあずけだ」という結論に達する。そこでQ太郎が口にするのが、「土地なんて人間が作ったわけでもないのに、持ち主があるなんておかしいや」という言葉なのだ。 では、この違和感をどのように昇華させるか。Q太郎はある改善策を考え、実行に移す。それは土地を「みんなで少しずつ分けるべき」という考えに基づいた策である。ずばり、さまざまな家の庭の土地をすくってきては、大原家の庭にもってくるというもの。かくして、大原家の周りは土だらけになり、朝になって目覚めたパパや正太は、愕然とした表情を浮かべることとなる。これでは問題の解決にも何にもなっていないわけだが、つまり図式的にいえば、Q太郎もドラえもんも、土地をめぐる既存の価値観からの脱却はできずに終わる。 『3万3千平米』でも、「そもそも土地なんかだれのものでもないはずだ」は、結局は「お題目」以上の意味をもたない。寺主も、妻も、一郎も、奇妙ななりの男も、土地に対する認識や価値観の「ずれ」はありながらも、「土地はだれかのもの」を前提としたシステムのもとで考えを組み立て、行動や発言をする。 『3万3千平米』のラストは、一見はハッピーエンドに見える。いや、筆者もハッピーエンドであるとは思うのだが、その反面、のどに小骨が刺さったような感覚をぬぐうこともできない。なぜなら、その幸福は寺主の努力、もしくは彼の変化によって手に入れられたものではなく、あくまでも棚からぼた餅的に転がり込んできたものであるからだ。 寺主自身は彼の言葉を借りれば、「グズでドジでダメおやじ」からさほど変化もないだろうし、「土地はだれかのもの」に則ったシステム自体も、一瞬は揺らいだように見えながらも結局は温存される(詳細は伏すが、寺主が最後に手に入れる幸福もまた、「土地はだれかのもの」に則ったシステムの果実である)。 それでいいのか?と思いつつ、読者がそうした違和感を抱くことは、藤子・F・不二雄が企図したものでもあるだろう。『オバケのQ太郎』や『ドラえもん』にみられるように、個人がシステムに抗うことの不可能性を、作者は知悉している。だからこそラストにおいては、普通はありえないような幸運に直面した、寺主の複雑な表情まで藤子・F・不二雄は包み隠さずに描いたし、それが心に残る。 むしろこんな奇跡が起こらない限りは、土地というシステムに振り回される個々人が救われることはけっしてないのだ。『3万3千平米』が最後にたどりつくのは、宝くじ的偶然を手にした男の幸福ではなく、「土地」という不合理に反発心をもちながらも、良くも悪くも、結局はそこに取りこまれざるを得ない人々の悲哀という一回転させたアイロニーであり、それを一見「ハッピーエンド」で包み込んだことに、藤子・F・不二雄の作家としての凄みがある。そう言えるのではないだろうか。
若林良