「政局の中心舞台」が焼失…報道カメラマンが密着・目撃した「旧田中角栄邸」伝説&内部写真
昭和の政局の舞台となり、政治権力の象徴でもあった旧田中角栄邸、通称「目白御殿」が火災に見舞われたのは1月8日のことである。 【秘蔵写真】すごい…! 喪失した田中邸の過去の栄光 仏壇前でたたずむ田中角栄 東京・文京区目白台の広大な敷地に建つ旧角栄邸から火の手があがったのは午後3時過ぎ。当時、田中角栄元首相の長女・眞紀子氏(元外相)、夫の直紀氏(元防衛相)ら4人が邸内にいたが、燃え広がる前に退避し、幸いにもケガ人はいなかった。 当日の夜10時前には鎮火したが、2階建て住宅の延べ800平方メートルが全焼。警視庁と東京消防庁の実況見分によると、火元は建物1階の仏壇付近。真紀子氏があげた「線香」が出火原因とみられるという。 騒然とするこの火災現場に、居ても立っても居られず、駆けつけたカメラマンがいた。1980年代、「闇将軍」として政界に君臨していた田中角栄を追い続け、写真集『田中角栄全記録』(集英社)を上梓した報道写真家の山本皓一氏である。 「30年前、角さんが亡くなった1993年12月のことを思い出しました。あのときも目白に駆けつけシャッターを切りましたが、同じような喪失感と、はかなさを感じています」 新潟県出身の田中角栄が、目白の地に居を構え、それが自身の代名詞となった経緯は、あまり知られていない。 最盛期、2598坪(8575㎡)にも及んだ「目白御殿」の広大な敷地は、一括で購入されたものではない。それは18年もの歳月をかけ、角栄本人やファミリー企業が購入と拡張を繰り返してできた「執念」の結晶だった。 今回の火災を受け、眞紀子氏が毎日新聞の取材に語ったところによれば、自身が小学校4年生のとき、新居の土地を探していた父・角栄から「ついに見つけた。運転手を行かせるから目白に来なさい」と言われて転居して以来、居住歴は70年以上になるという。 この証言は登記簿とも一致する。角栄は代議士となった6年後の1953年、目白通りから少し奥に入った日本石油の社宅(490坪)跡地を購入した。戦後、この社宅周辺には焼け残った長屋などに12世帯、45人が暮らしていた。 角栄はその後、取得した日石社宅跡地の周辺の住民と買収交渉を開始。立ち退きを渋る住民もいたが、不動産売買は「田中土建工業」社長だった角栄の得意分野である。豊富な資金力と代議士の威光を最大限に活かした交渉で、1966年までに5回の「敷地拡張」に成功、当初490坪だった土地は約1530坪まで広がった。 さらに1967年、角栄は自身のファミリー企業を通じて、隣接していた信濃飯田藩の藩主一族だった堀家の下屋敷跡975坪も入手する。こうして「目白御殿」は完成。その5年後、角栄は宰相の座に登りつめるのである。 角栄はなぜ、この土地にこだわったのか。その点について、角栄は「飯田藩堀家」の土地を、故郷である新潟の藩主「椎谷藩堀家」の土地と誤認していたという指摘がある。これは『堀家の歴史』(堀直敬著、新人物往来社)のなかで触れられているもので、郷土愛にかけては誰にも負けなかった角栄らしい逸話と言えよう。 総理大臣就任後、目白の私邸で「今太閤」のこのフレーズを聞いたという政界関係者の証言は、数多く残されている。 「いいか、よく聞いておけ。日本のことは、すべてここで決まるんだ!」 日本の中心は、官邸でも国会でもなく、この角栄のいる場所だ――それは決して誇張ではなかった。1976年、ロッキード事件で東京地検特捜部に逮捕され、被告の身となってからも、自民党幹部たちの「目白詣で」がやむことはなく、新内閣発足時には新任大臣たちが雁首を揃えて「お礼」に訪れた。 連日のように大型バスに乗った陳情客が訪れ、毎年正月には数百人から1000人近い年始客で賑わったことでも知られる。大勢の来客に対応するため、1981年には100人を収容できるホールも建設された。庭の池には新潟・小千谷の高価な錦鯉が泳いでおり、下駄履きの角栄が鯉に餌をやる姿は絵になった。 「目白御殿」の伝説は枚挙に暇がない。 ロッキード事件で、丸紅側の5億円提供をともなう請託を角栄が「よっしゃ、よっしゃ」と引き受けたとされた(一審、二審で認定されたが角栄は否定。上告審は本人の死去により公訴棄却となった)のは、まさに目白の私邸での出来事であった。この「よっしゃ」は当時、日本の流行語にもなった。 角栄は1985年2月、脳梗塞に倒れ表舞台から姿を消すが、翌年1月、毎日新聞が上空を飛ぶヘリコプターから自宅の庭にいた「車いすの角栄」の撮影に成功。この写真は新聞協会賞を受賞している。 1987年には有名な「竹下門前払い事件」が起きる。自民党総裁選が行われたこの年の正月、クルマに乗った竹下登幹事長(当時)が目白の角栄邸を訪問したものの、正門は開かなかった。大勢の記者、カメラが見守る前で、竹下は引き返すしかなかった。田中派からの独立を画策し「創政会」を立ち上げた竹下への「怒り」が解けていないことをうかがわせる「事件」だった。 竹下はこの年の10月にも「門前払い」を食らっている。総裁選出馬を控え、日本皇民党による「ほめ殺し」の街宣に苦慮していた竹下が、角栄に詫びを入れることで解決を図ったものとされている。2度目の訪問でも門が開くことはなかったが、「ほめ殺し」はピタリとやみ、竹下は「中曽根裁定」によって総理総裁の座を手中におさめている。 最晩年に「目白御殿」を訪問した要人といえば、中国の江沢民・元国家主席(故人)だろう。江沢民氏は総書記時代の1992年4月、日中国交正常化を成し遂げた角栄を表敬訪問し、「私たちの国は、最初に井戸を掘ってくれた人を大切にします」と角栄に感謝の意を表明した。 1993年12月に角栄は世を去り、その後、相続税として約3000㎡が文京区に物納され(現在は目白台運動公園の一部となっている)、広大な邸宅は約半分の広さになった。だが、近隣の住民たちは「ここは角栄さんのお家だったところですよ」と説明するのが常だった。 かつて、邸内の撮影を許された山本皓一氏が語る。 「一抹の寂しさはありますが、目白御殿が輝いていた時代は写真に残されています。角さんが生きていたら、ウチの火事など大した問題ではない、日本の政治を何とかせい、とダミ声でまくし立てているでしょう」 思い出の邸宅は焼け落ちた。されど田中角栄はいまなお、人々の記憶のなかに生きている。 取材・文:欠端大林
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