ヤクルト・青木「妻にはいつも支えてもらっていた」と元アナウンサーの佐知さんに感謝 子どもたちは「泣いてましたね。伝えるのが一番つらかった」
ヤクルト・青木宣親外野手(42)が13日、都内の球団事務所で引退会見を行った。グレーのスーツ、茶色のネクタイで会見場に姿を現し「引退しました。引退することを決意しました。たくさん質問してください」と話し、決断して「ホッとします」と心境を述べた。 【写真】笑顔で会見が一転、涙 号泣で花束贈呈の村上に「俺も涙出てくるよ~。やめてくれよ~」 ヤクルトでの21年間については「すごく長いように感じるけど、1日1日やってきたので早い気もしています」と振り返り、その原動力については「家族の支えは大きかった」。引退については「妻には早い段階で伝えていたけど、娘息子には最近です。泣いてましたね。プレーをいつまでも見ていたかったでしょうし、子どもに伝えるのが一番つらかったですね」と振り返った。 あらためて家族への思いを問われると「妻にはいつも支えてもらっていた。アメリカにいった6年は大変な思いもした。苦しい時も支えてもらった。子どもたちの存在は野球をやるにあたって活力。子どもたちを見る度に。いつまでも現役でやっている姿を見せたかったけど、もう1年でもやっていいのかなとかそういう気持ちも少しは芽生えました」と元アナウンサーの妻・佐知さんへの感謝と子どもたちへの思いを口にした。 青木は2004年に早大からドラフト4位でヤクルトに入団。12年からはメジャーにも挑戦し、17年には日米通算2000安打を記録。18年から古巣・ヤクルトに復帰した。 ドラフト時には「ヤクルトに指名されたい」と願い、海を渡る前には「また帰ってきてほしいと言われる活躍がしたい」と表情を引き締めた。また18年に古巣へ復帰した際には「この球団を愛している」と言葉にした。ミスタースワローズと呼ばれ、ヤクルトと相思相愛だった21年間。歴代5位の日米通算2723安打という誇りと結果を胸に、惜しまれながらユニホームを脱ぐ。 ◇青木宣親(あおき・のりちか)1982年1月5日、宮崎県日向市出身。日向高から早大を経て2004年ドラフト4位でヤクルト入団。05、10年にプロ野球史上唯一の2度のシーズン200安打以上を達成した。11年オフに大リーグ・ブルワーズに移籍。17年に日米通算2000安打を達成し、18年にヤクルトに復帰した。06、09、17年WBC、08年北京五輪日本代表。175センチ、80キロ。右投げ右打ち。