遅すぎ、少なすぎたB-29迎撃のための“優秀砲”【5式15cm高射砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 第1次世界大戦後の航空機の発達は、1920年代末から1930年代にかけて急速に進んだ。そのため世界の軍隊では、より高高度をより高速で飛ぶ航空機に対処するため、高射砲の高性能化の研究が続けられた。 航空機という動的(動く的のこと)を精密に狙える照準器と、適切な高度で正確に砲弾を炸裂させる信管についての話は除外して、高射砲という兵器に求められる性能をごく簡単にいうと「1:飛んでいる航空機を狙った際の見越しの距離をできるだけ短くするために、弾速は可能な限り速いこと。2:とにかく高高度まで砲弾が届くこと。3:砲弾が炸裂した際の有効範囲をより大きく得るために大口径なこと。4:高速で移動する航空機に対し、短い時間でできるだけたくさんの砲弾を撃ち上げられる速射性」となる。 つまり「高初速」で「長射程」で「大口径」で「速射」できる砲ということだが、当時の技術では「大口径で速射できる」という点が難題となっていた。 こういった世界共通の事情がありながらも、日本陸軍も高射砲の研究を続けていた。ところが、1943年3月に起きたB-29試作機墜落事故のアメリカ国内における報道で同機の開発が進められていることを知ると、日本陸軍は、既存の3式12cm高射砲でも対抗可能ながら、やや心許ないという判断を下した。 そこで、かねてより研究が進められていた新しい大口径高射砲の開発順位が急遽繰り上げられ、口径15cm(実際は14.91cm)、砲身長9mという試作砲が1944年中旬に完成。翌年に5式15cm高射砲として制式化された。 照準は、ドイツ製ヴュルツブルク・レーダーと連携した射撃管制装置で行い、信管の調定も支援する半自動装填装置を備え、最大射高19000mで、15cmという大口径にもかかわらず毎分9~10発の高い発射速度を誇った。 このように5式15cm高射砲は優秀だったが、わずか2門しか実戦配備できず、その2門とも東京の久我山高射砲陣地に配置された。そして、一説では1発で2機のB-29をまとめて撃墜し、その威力に驚いたアメリカ軍が久我山上空を飛行禁止区域に指定したという逸話もあるが、戦後の検証の結果、これはどうも事実ではないようだ。 5式15cm高射砲は、確かに優秀な高射砲といえる。だが航空機の性能向上がはるかに先に進んだ結果、当時、高射砲による防空はすでに限界を越えていた。加えて、高射砲は対戦車砲のように「狙撃的」な運用をする砲ではなく、弾幕を張ることで防空帯を構築する兵器である以上、一斉に射撃する「砲の数」がものをいうが、実戦配備数わずかに2門では、いくら毎分発射速度が9~10発と多いとはいえ、活躍のしようもないというのが厳しい現実であった。
白石 光