ホンダスポーツの復活(上) 排ガス規制後の日本で新時代切り開いた高性能エンジン
アメリカ志向から欧州志向への転換
1980年は、日本車のカーデザインにとって大きなターニングポイントでもあった。それまでアメリカに範を取っていたデザインが一気に欧州志向に変わった。ひとつにはアメリカの自動車がオイルショック以降の世相に全く着いて行かれなかったことが背景にあった様に思う。「ガソリン垂れ流しの恐竜」としてアメリカ車はいっきにアウトオブデートなイメージになった。 しかも対比する様に欧州ではフォルクスワーゲンが初代ゴルフを発売し、合理主義的パッケージの理想を提示して見せたのだ。アメリカ追随をやめた日本車は、新世代高性能エンジンと欧州流の理知的でスマートなデザインを取り入れて新たな時代に突入した。オイルショックを分水嶺として日本車は大きく変わったのである。 変わったのはデザインだけではない。それまでいかに乗り心地がソフトかを目指していた日本車が、突如運動性能を高める方向へ進路を変え、キビキビしたハンドリングを目指し始めた。もちろんそれ以前にも例外的に欧州志向のクルマはあったのだが、日本車全体として目指す先が欧州志向に大きく変わったのである。 折しも社会学者のエズラ・ボーゲルが"Japan as Number One"を記して、日本の自動車産業が世界の頂上に上り詰めて行った時期である。それは同時に日本円が世界の基軸通貨の役割を部分的に担うことになる1985年のプラザ合意への最終段階でもある。こうして日本車の黄金時代がやってきた。
ホンダの頂点をつくった「Type R」
自動車メーカー各社は競って高性能車を送りだす。プラザ合意で始まったバブル経済は、1990年の1月に突如崩壊する。しかし、その後の長い不況を考えれば'90年代の前半はまだまだバブルの残り香の最中にいたようなものだった。そんなアフターバブルの時代に、ホンダの頂点をつくった一群のクルマがあった。Type Rである。 Type Rとは1992年に初代NSXに設定されて以来、インテグラやシビックに用意されてきたスポーツモデルのグレード名だ。特に初期には、量産車でありながら、熟練職人の手作業によるポート研磨やピストンなどのバランス取りを行うなど、クルマ好きの琴線に触れるディティールで話題を呼んだ。しかし、そのType Rこそが実はホンダのスポーツモデルの幅を狭めてしまったという疑いが濃厚にある。「スポーツカーとレーシングカーの差」という決定的なズレをそれらのモデルが抱えていたからだ。一言で言えば、尖鋭的過ぎたということになるのだろう。それは一体どんな違いだったのかという話は続編でじっくりと説明したい。 (池田直渡・モータージャーナル)