大阪大空襲の記憶を記録画集に「生死をかけたわかれ道」
燃えそうになる防空ずきん、母がたびたび水をかけた
矢野少年らは走り続けたが、街は焼夷弾にの恐怖に包まれていた。途中「が~ん」「ゴロゴロゴロ」という音が聞かれる。矢野さんは近くを走っていた男性に「おっちゃん、これなんの音なん?」と聞いた。すると、男性は「これは焼夷弾が屋根から転がり落ちとる音や。この辺が火の海になるぞ」と話したのを覚えているという。 防空ずきんをかぶっているが、あちこちで火の手があがり、火の粉がふりかかる。「ずきんって中が綿でしょ。だからすぐ燃えるんですよ」と矢野さん。そのため、矢野さんの母親は、防火用水のある所で何度も頭から水をかけてくれたという。 「けど、逃げてたら熱さですぐに乾くんですよ。だから、そのたびに母親は水をかけてくれましたわ」と当時を振り返る。 そして、逃げていくうちに鉄道の高架下にたどりついた。もう走り続けてクタクタの状態だった矢野さん。高架下には記憶では100人くらいいた覚えがあるという。そして、夜が明けるころに、天王寺区内のおじの家へたどり着いたという。
あの戦争は今の人には味あわせたくない
矢野さんが逃げてたどりついたという高架下は、大阪市浪速区難波中の南海線の下だった。現在は近くに「ヤマダ電機LABIなんば」や「なんばパークス」などがあるにぎやかな場所になっている。 その場所を訪ねてみると、思い出すこともあった。自分が逃げてきた場所の方向は、空が真っ赤だったという。「子供心に、とにかく逃げなあかんと。親父もおらんし(徴用で不在だった)心細いし。どこ走ってるやさっぱりわからんままここへ来たわけですね」 大空襲を生きのびた矢野さんだが、その後、母と兄とこの大空襲について話すことはなかったという。そして、戦後70年の今年、看板職人の腕を生かして、この体験を絵にまとめた本を出すなど、改めて戦争体験を伝える活動をはじめた。 「これからは老いも若きも、すべての人が笑って暮らせるようになってほしい。戦争はいけません。あの戦争は今の人には味あわせたくないです」と語る矢野さん。そんな矢野さんの夢は「みんなが笑って暮らせるようになること。それが夢ですね」と話し、その思いを笑顔が並ぶ絵にして表してくれた。 ・戦後70年 未来に残す 戦争の記憶~100年後に伝える、あなたの思い~