「義経千本桜」「東海道四谷怪談」……歌舞伎の舞台となる土地を訪ね歩き問う「物語」の必要性
「物語が誕生した土地を訪ねるとリアリティーはあるけれど、伝説の虚と実の境目が揺らいでいてない交ぜになっている。それが物語であり物語がもつ磁力です。史実として本当かどうかだけにこだわっていたら世界は見えてこない」 物語のフィクションと現実の境目が地続きになっていることを実感したのは幼少の頃からだ。和歌山の祖母の実家へ行くと、祖母は目の前の熊野街道を必ず小栗街道と呼んでいた。なぜならここを小栗判官が通ったからだと。説経節の小栗判官は偏見と差別の病に侵されていた。祖母は子供の頃、同病の患者たちがこの道に寝起きして熊野を目指し巡礼へ行くのを実際に目撃したという。 「祖母の中で物語を変形させていったところはあったと思いますが、虚と実が地続きになっている人たちの物語への思いの強さがある。都市部で歌舞伎を楽しんでいるだけではわからない、違う物語の捉えかたがある。これを追いたかった」 アニメ作品が歌舞伎になるのも珍しくない時代だが、もう一度物語の原作と向きあう必要がありそうだ。 「時代の反映もエンタメ化もあるでしょう。でも原作は源流を旅する船の錨なんです。いろんな時代の人が船を動かしてきた。現代はどこへ向かい錨をおろすのか。錨を失くしたら漂流してしまう」 石巻で東日本大震災で家族もなにもかも失った初老の男性が、10年以上の歳月を経て少しずつ言葉を取り戻し身の上を「物語る」姿を著者は目の当たりにした。生きるためにも「物語」は必要なのである。 (古典芸能エッセイスト・守田梢路) ※AERA 2024年12月23日号
守田梢路