たった1本の矢で3万の軍勢を退かせた「三国志・最強の男」とは?
映画『ジョーカー』や『マレフィセント』など、もともと〝悪役〟として描かれていたキャラクターを主人公とした作品が数多くヒットしています。時代劇でもまた、ライバルとして描かれる偉人たちがいますよね。そんな偉人たちにフォーカスを当てた『ダークヒーローな偉人図鑑』。【歴史人Kids】 「クラスで将棋(しょうぎ)が一番うまい」と自慢していた人が、となりの組のいちばん強い人は、もっと強かった・・・なんていうことがあります。何ごとも、上にはうえがいるものです。 ◆三人がかりでも倒せない、武勇最強の男 それは歴史の世界でも同じ。たとえば歴史書『三国志』をもとにした小説『三国志演義』に、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)という豪傑(ごうけつ)が登場します。この2人はとても強く「ひとりで一万人の兵に匹敵(ひってき)する」といわれるほどでした。 ところが、この2人が一度にかかっても倒せない強敵がいました。それが後漢(ごかん)最強と名高い、呂布(りょふ)という武将です。『三国志演義』序盤(じょばん)の「虎牢関(ころうかん)の戦い」で、さきほどの関羽・張飛および、劉備(りゅうび)が呂布に挑む名場面があります。 ところが、3人がかりでも呂布は討ち取れません。たがいの馬が駆(か)けまわるなか、呂布はしばらくの間3人の攻撃をかわし、戦っていましたが、不利をさとって愛馬にムチを入れます。呂布の馬は赤兎(せきと)という名馬で「一日に千里を駆ける」といわれたほどです。劉備たち3人は、赤兎に乗って逃げる呂布を追いますが、とても追いつけませんでした。 読者に衝撃をあたえる「三英戦呂布」(さんえいせん りょふ)。このエピソードは小説に描かれたフィクションですが、では現実の呂布はどうだったのでしょうか。そこで、歴史書(正史『三国志』など)に描かれる呂布の武勇をいくつか紹介しましょう。 西暦190年代の前半、呂布は郭汜(かくし)という武将と「一騎討ち」を行なったことが歴史書(英雄記)にしるされています。たがいの軍と軍がむかいあったとき、呂布は先頭に出て「兵を下げ、一対一で勝負しよう」といいました。 相手の郭汜も腕じまんの男。かくして一騎討ちとなりましたが、呂布はみごと郭汜を落馬させ勝利しました。軍を率いる大将どうしの「一騎討ち」は、小説は別として、歴史書ではめったに見ることができません。軍の大将が倒れれば戦いは負けたのも同じ。よって、みずからが戦うことは、ほとんどありませんでした。呂布の勇気と腕前が、それだけすごかったのでしょう。 それから数年後、呂布は中国北東部に勢力をもつ袁紹(えんしょう)のもとに身を寄せました。そのとき袁紹は近隣を荒らしていた黒山賊(こくざんぞく)と戦っていましたが、手を焼いていました。敵は歩兵1万人、騎兵(きへい)数千人の大軍をかかえ、簡単には討伐(とうばつ)できなかったのです。 そこへ呂布が名乗りをあげます。彼はわずか数10騎だけ引きつれ、愛馬・赤兎(せきとば)に乗って何度も突撃をくりかえしました。その勇猛さに賊は崩れ、10日ほどで退散してしまったといいます。その戦いぶりを見た人々はこう言いました。「人のなかに呂布あり、馬のなかに赤兎あり」と。 ◆戟に矢を当てた呂布の「神わざ」 呂布の出身地は、中国大陸の北部、并州(へいしゅう)というところで、いまの南モンゴルのあたり。モンゴル人は騎馬民族(きばみんぞく)ですから、幼いころから馬にしたしみ、また獲物をとるために弓を練習していました。13世紀、チンギス・カン(ハーン)が世界の4分の1に当たる土地を征服できたのは、彼らが移動手段にしていたモンゴル馬のおかげといわれるほどです。 呂布もそのように育ったのでしょう。呂布がもっとも得意にしていたのが、馬と弓です。「弓馬」(きゅうば)の術という言葉があるぐらいですから、どちらも武人には必要な腕前でした。 西暦196年、袁術(えんじゅつ)が、劉備(りゅうび)を攻めようと3万の大軍を送り込んだときのことです。劉備は同盟相手の呂布に加勢(かせい)を頼みました。呂布はそれを聞き入れて駆けつけ、劉備と袁術軍の大将、紀霊(きれい)を陣営に招くと、酒宴をひらいて「戦いをやめろ」と提案しました。 しかし、紀霊にも大将としてのメンツがあります。「俺は劉備を討ちに来たのだ」と譲りません。そこで呂布が立ち上がり、愛用の戟(げき)という武器を手に取ります。それを兵に渡し、陣営の門の外に立てさせて、こう言いました。 「今から、おれがあの戟の刃先を矢で射る。もし外れたら、このまま戦え。当たったら天の意志と思い、だまって軍を退け」 戟は150歩も離れたところに突き立っています。「当たるはずがない」と思った紀霊はそれを約束しました。ところが、呂布が「えい」と一声あげて矢を放つと、みごと戟の刃先に命中します。みな、その神わざに目をうたがい、驚嘆(きょうたん)したのでした。こうして呂布は3万の軍を矢1本で退かせ、劉備の命を救ったのです。 しかし、呂布は武勇に優れていましたが、目先の利に弱いところがありました。自分が仕えていた丁原(ていげん)、董卓(とうたく)を殺害したこともあり、彼を信用せず、危険視(きけんし)する人が多かったのです。それに、呂布は自分の武勇への過信がありました。そのために、すぐれた部下がいながら意見をきかず、最後は曹操(そうそう)の策略(さくりゃく)に敗れて身を滅ぼしたのです。 「虎のような強さをもちながら、英略をもたなかった。軽はずみでずる賢く、利益だけが頭にあった。呂布のような人物が破滅(はめつ)しなかったことはない」と、『三国志』の作者・陳寿(ちんじゅ)は述べています。 しかし、歴史書に残るとおり、その武勇は本物。騎兵の指揮官として随一の能力を持っていましたし、彼に最後まで仕えた人も決して少なくありませんでした。呂布のような人物が居るからこそ『三国志』には面白みがあるともいえます。だからこそ彼が「乱世の申し子」で「最強」の存在として語り継がれてきたのでしょう。
上永哲矢