剣豪・柳生十兵衛を参らせた小野派一刀流の創始者<小野次郎右衛門>とは⁉
戦国時代。剣をもって戦場を往来し、闘い抜き、その戦闘形態が剣・槍・弓矢から鉄砲に変わっても、日本の剣術は発達し続け、江戸時代初期から幕末までに「剣術」から「剣道」という兵法道になり、芸術としての精神性まで待つようになった。剣の道は理論化され、体系化されて、多くの流派が生まれた。名勝負なども行われた戦国時代から江戸・幕末までの剣豪たちの技と生き様を追った。第7回は小野派一刀流(おのはいっとうりゅう)の創始者、小野次郎右衛門(おのじろうえもん)。 小野次郎右衛門忠明(ただあき)は、いつ生まれたか、は不明である。上総出身という説はある。伊東一刀斎(いとういっとうさい)の弟子として諸国を歩いたが、その兄弟子に小野善鬼(ぜんき)がいた。ある日、一刀斎は徳川家康(とくがわいえやす)に招かれてその剣技を披露した。その技に感激した家康は、一刀斎に自分への仕官を求めた。家康は自身が剣技を磨くために、多くの剣豪を招いている。神陰流(しんかげりゅう)の奥平(奥山)休賀斎(きゅうがさい)なども家康から朱印をもらっているほどであった。後に柳生宗矩(やぎゅうむねのり)を将軍家の指南役としたのも、そうした家康の「剣技(剣豪)好き」を示している。 家康から仕官を求められた一刀斎は、「自分はすでに老いているためとてもご指南役などは務まりません。ここにいる門人・神子上典膳は私に勝るとも劣らない技量の持ち主です」と辞退し、代わりに当時は神子上典膳(みこがみてんぜん)と名乗っていた次郎左衛門を推挙した。兄弟子の善鬼は、これに怒った。一刀斎の一番弟子で、剣技も自分の方が上だという意識の強い善鬼であった。これを根に持った善鬼は、執拗に師の一刀斎に抗議した。一刀斎は、とうとう「ならば、神子上と立ち合ってみよ。勝利者に極意と免許皆伝を与え、仕官の推挙もしよう」と弟子2人の一騎打ちを提案した。 立ち合い場所は、下総・小金原(こがねはら)である。一刀斎は、2人の技量はよくて同等、どちらかといえば善鬼が上と見ていた。しかし、気持は荒く、邪心が強い上に大人びた態度もできない善鬼に、一刀流を継承させたくなかった。そこで、誰もいない場所で2人を立ち合わせ、自分が典膳に味方すれば、善鬼を討ち果たせると考えたのであった。 決闘の場に、立会人としている一刀斎が刀を抜いて典膳の側に立ったことにより、善鬼は討ち果たされてしまった。一刀斎は、この果たし合いの後に「瓶割(かめわり)」と名付けた名刀と極意書を与えて去ったという。 典膳は、この後に「小野次郎右衛門忠明」と名前を変えた。小野は、母方の姓ともいい、善鬼の姓を取ったともいう。文禄年間(1592~96)に家康が開いた江戸に出て神田山の下に兵法道場を開いた。まだまだ戦国の気風が漂って、江戸は気風が荒い町であった。次郎右衛門は悪事を働く者たちを、成敗しては兵法者として名前を上げる。そこに家康から声が掛かった。次郎右衛門は、知行200石(後には600石)で、家康の3男・秀忠(ひでただ)付きの旗本・兵法指南役になった。しかし次郎右衛門の兵法への考え方は一貫していた。家康から一刀流奥義を聞かれると「大したことではありません。師から自然に身に付けました。他流のように飛んだり跳ねたりはしません」と暗に柳生流(やぎゅうりゅう)などを揶揄して答えた。 次郎右衛門は、兵法(剣技)は人から愛される筈がなく、理屈で分かったような顔はしない、というのであった。ある時、柳生宗矩から道場に誘われた次郎右衛門は、そこで宗矩の長子・十兵衛三厳(みつよし)と立ち合ったが、十兵衛は一合も交わすことなく木剣を投げ捨てて「参った」とし、高弟の木村助九郎(きむらすけくろう)らも敗れてしまった。 しかし、生涯をこうして己の生きる道のみに生きた次郎右衛門は、600石の旗本で終えた。次郎右衛門は寛永5年(1628)没した。
江宮 隆之