【東日本大震災から13年】誰のためにやっているのか…行政主催の追悼式典に、震災遺族たちが抱いた「強烈な違和感」の正体
行政の震災遺構への態度は適切ではないのではないか。前編記事【「娘が見ていた建物はもうここしか残っていないから」…「民間震災遺構」を残した所有者の「胸中と覚悟」】に続き、遺族は追悼行事への違和感も抱く。 【写真で見る】陸前高田市の昔日の面影を唯一残す「民間震災遺構」
追悼式典出席者が大幅減
陸前高田など旧気仙郡2市1町の地元紙・東海新報は今年2月11日、岩手大学と神戸大学の研究者による「3・11を過ごす場所」アンケートの結果を報じ、同日の紙面から遺族の居場所や追悼のあり方を考える連載を始めた。 そこでは、陸前高田で公的な追悼式に出席したと答えた人の割合が2012年の15.7%から、2022年は2.9%へと激減し、自宅で過ごす人が20.2%から67.1%へ大幅に増えたことが記されている。 10年間で住宅が整備された、遺族・被災者の高齢化が進んだといった要因も指摘される一方、遺族たちが抱く市の式典への違和感がこう書かれている。 〈黙とうをささげ、公的な立場の人が式辞を読み上げ、そして──来賓が一人ずつ時間をかけて献花を行う。遺族より先に、である。最後に遺族が白菊をたむける時は、流れ作業のようにせわしない。 発災10年を区切りとし、気仙両市(注・陸前高田と大船渡)でも式典から「遺族のことば」がなくなった。もはや誰のため、何のための追悼式なのか分からない──〉 同じことを私も以前、藤田さん夫妻から聞いていた。遺族が亡き人への思いや悲しみを分かち合える場になっていない。だから出席しなくなった、と。その藤田さんは同紙の連載第7回に登場し、米沢商会ビルへの思いも語っている。 「よそのまちにいる自分たちからしたら、なぜ米沢商会ビルが公的な遺構にならないのか不思議なくらい。かつてのまちの姿をとどめる貴重な存在で、こんなにもよりどころになっているのに」
まともな議論もなかった
陸前高田市の震災遺構選定に対する疑問だ。市は、海岸線の高田松原に残った「奇跡の一本松」をはじめ5つの震災遺構を保存管理し、説明板を設置しているが、いずれの遺構でも死者は出ていない。震災の翌年、自らも遺族である当時の戸羽太市長が「人が亡くなった建物はすべて壊す」と方針を決めたことが背景にある。 その結果、先述した市民会館も、それに次ぐ死者が出た市民体育館も、また県立高田病院や気仙小学校も早々に解体撤去が決まり、保存を求める声が上がっても、まともに議論されることはなかった。 これらの建物が解体された後の2013年、判断の性急さを市議会で問われると、市長は「市街地のかさ上げの支障になるうえ、解体撤去は国の補助事業であり、2012年度中に終えなければいけない制約があった」と答弁した。 退任後の講演では、解体と保存という正反対の声が身近にもあり、悩んだことを打ち明けている。ただ、結果的に議論の場と時間を設けず、保存の要望を切り捨てたことが今に至るまでしこりを残すことになった。 「いずれも市の避難所に指定されていた施設。残すことで自らの失敗を認め、責任追及されるのを嫌がったんでしょう」 「せめて、ここで何があったかを記す碑や説明板を跡地に設置してほしいが、それもない。震災の教訓を伝えると言うが、本当はその気がないのでは」 今回の取材で会った遺族や被災者から市の対応への不信感や割り切れなさを複数聞いた。市の方針とそれをめぐる地元の空気を、ある市役所関係者はこんなふうに語っていた。
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