【サッカー日本代表 板倉 滉の「やるよ、俺は!」】第29回 板倉滉のターニングポイント、仙台への移籍
■調子づいた先の一発退場と大ケガ そうして迎えた18-19シーズンの第1節(2月25日)。僕はプロ生活で初となるスタメン出場を果たした。会場はホームのユアテックスタジアム。相手は柏レイソルで、ちょうどFW伊東純也君が所属していて、マッチアップのタイミングもあった。極度の緊張を通り越し、試合を通じてなぜかフワフワとした感覚があり、自分のプレーを出し切れたわけではなかった。 だが、この日は大きなチャンスが巡ってきた。後半8分、MF古林将太選手からいいクロスが上がってきて、プロ初のヘディングゴール。同時にJ初ゴールでもあった。結局、これが決勝点となり、1-0のクリーンシートに。今までの不遇がすべて清算されたような感覚で、一生忘れられない日になった。 とはいえ、そこから破竹の勢いだったかというと、そうでもない。3月14日、YBCルヴァンカップ第2節の横浜F・マリノス戦に先発するも、38分に相手選手へのスライディングで退場処分を食らった。しかも、右足首の靱帯損傷で全治約7週間のケガという悪いおまけ付き。 チームには大変な迷惑をかけたものの、同時に自分にとっては学びにもなった。復帰後は、この失敗を糧に〝フォア・ザ・チーム〟の精神で練習に打ち込んだ。チームからはビデオチェックしながら、細かいポジショニングやラインコントロールの指導を徹底的に受けた。 戦術理解度が乏しく、チームを俯瞰で見ることもなく、ただ目の前の相手をどれだけ困らせることができるか、それに終始していた僕の意識は大きく変わっていった。 このシーズン、最終的にはリーグ11位に終わったが、天皇杯ではクラブ初となる決勝まで駒を進めることができた。成績に満足はしていないが、やりがいは感じていた。初めて年間を通して出場できたチームになったからだ。今でも仙台に対する思い入れは深く、僕を育ててくれた〝第二の故郷〟だと思っている。 19年にマンチェスター・Cへ移籍、すぐさまローンでオランダのフローニンゲンへ移った際も、初めての海外で孤独感に襲われて、丹治さんには時折電話をしていた。「丹治さん、もう日本に帰りたいです」。 すると「いつでも帰れる場所はあるから大丈夫。でもおまえは日本を代表するような選手にならないとダメだ。だから、そこで頑張れ」とエールを送ってくれた。あの言葉がなければ、今も海外でプレーできていなかったかもしれない。 あのとき、出場機会を求め、丹治さんと渡邉さんの誠実さと熱意を信じて、ベガルタ仙台を選んで本当に良かった。 構成・文/高橋史門 写真/アフロ